柳生俊則
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
|---|---|
| 生誕 | 享保15年(1730年) |
| 死没 | 文化13年6月5日(1816年6月29日) |
| 改名 | 賢広→満広→俊満→俊則 |
| 別名 | 通称:為次郎、采女 |
| 墓所 |
東京都練馬区桜台の広徳寺 奈良県奈良市柳生町の芳徳寺 |
| 官位 | 従五位下采女正、能登守、但馬守 |
| 幕府 | 江戸幕府 |
| 主君 | 徳川家治→家斉 |
| 藩 | 大和柳生藩主 |
| 氏族 | 松前氏→柳生氏 |
| 父母 |
松前邦広 柳生俊峯 |
| 兄弟 | 松前資広、染町、女子、俊則、松前広保、斐斗子、器四郎、松前広長、奴千、利和子 |
| 妻 | 柳生俊峯娘 |
| 子 |
俊永、俊睦 俊豊 |
柳生 俊則(やぎゅう としのり)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。大和国柳生藩8代藩主。官位は従五位下・采女正、能登守、但馬守。
