松前邦広

日本の江戸時代中期の大名。従五位下志摩守。松前藩一門松前本広六男で、6代藩主 From Wikipedia, the free encyclopedia

松前 邦広(まつまえ くにひろ、旧字体: 󠄁󠄁󠄂)は、江戸時代中期の大名蝦夷地松前藩の第6代藩主[注釈 1]官位従五位下志摩守

時代 江戸時代中期
生誕 宝永2年(1705年
死没 寛保3年閏4月8日1743年5月31日
改名 伝吉、広国、邦広
概要 凡例松前邦広, 時代 ...
 
松前邦広
時代 江戸時代中期
生誕 宝永2年(1705年
死没 寛保3年閏4月8日1743年5月31日
改名 伝吉、広国、邦広
戒名 常英
官位 従五位下志摩守
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗
蝦夷松前藩
氏族 松前氏
父母 松前本広杉原正長の娘
養父松前矩広
兄弟 広屯、主税、左門、越智吉品室、報広、杉原孫次郎、邦広、女子ら
正室房子高野保光の娘)
継室梅好子土橋武則の娘)
資広、染町、女子、柳生俊則広保、斐斗子、器四郎、広長、奴千、利和子
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生涯

宝永2年(1705年)、松前本広の6男として誕生。藩祖・松前慶広の次男で旗本1500石となった松前忠広の曾孫にあたる。享保元年(1716年)2月10日、第5代主・松前矩広の養子となった。同年2月15日、第7代将軍・徳川家継にお目見えした。享保6年(1721年)7月11日、養父・矩広の死去により、家督を相続する。同年10月15日、従五位下志摩守に叙任する。享保12年(1727年)2月16日、幕府から5、6年に一度参府する許可を得る。

矩広の代には既に家老職を巡る一門間の対立は顕著化していた。邦広はこれに対し、家老職から外れた非主流の一門を補佐的な役職であった中老に就任させて、権力の均衡を図り、政策実行の体制を作った。同時に町人、への支配体制を再建するために寺社奉行所の人事を刷新した。

邦広は整備された政治基盤を元に財政再建を推し進め、税制改正、問屋の株仲間化、それによる沖の口番所業務代行の認可と手数料の徴収により、商業と交易への支配力を強化した。折りしも、この時期はニシン漁業の発展に伴って蝦夷地の物流が活性化した時期であり、藩の主な収益はアイヌ交易と砂金採取から、請負商人の支払う手数料へと比重を移していく。邦広以後は藩主直轄の商場、山林らも大手商人の請け負うところとなり、ほぼ手数料収入に依存する体制となった。

藩の財政は再建されたが、請負商人と藩は癒着関係を深めた。肥大した商人の役割はやがて藩及び領民との摩擦となり、漁民一揆、公訴の乱発、アイヌ蜂起を招くことになる。

寛保3年(1743年)、死去。享年39。

系譜

父母

  • 松前本広(実父)
  • 杉原正長の娘(実母)
  • 松前矩広(養父)

正室

  • 房子 ー 高野保光の娘(正室)
  • 梅好子、佐尾子 ー 土橋武則の娘(継室)

子女

  • 松前資広(長男)生母は佐尾子(継室)
  • 染町、道子 ー 高野保古
  • 柳生俊則[3](次男)
  • 松前広保
  • 斐斗子 ー 蠣崎広重
  • 松前器四郎
  • 松前広長
  • 奴千 ー 下国季隆室後に藤倉義伯
  • 利和子 ー 高橋光隆の養女、夭折

注釈

  1. 松前氏(蠣崎氏)については江戸初期の松前盛広の扱いが文献により異なるため代数の加算に違いがみられる[1]。『藩翰譜』や『寛政重修家譜』などでは盛広を藩主と認めていないが、『松前家記』などでは盛広も藩主として数えている[1]。本項では松前慶広を藩祖とする歴代藩主の代数に関して盛広を含まない代数となっている。なお、蠣崎信広(武田信広)を初代とする歴代当主の代数に関して、国指定文化財「松前藩主松前家墓所」の解説では盛広を6代として含めており、邦広を11代目の当主とする[2]。詳細は蠣崎氏を参照。

脚注

参考文献

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