柳生友矩
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| 時代 | 江戸時代前期 |
|---|---|
| 生誕 | 慶長18年(1613年) |
| 死没 | 寛永16年6月6日(1639年7月6日) |
| 別名 | 左門、刑部(通称)、宗田(法名) |
| 戒名 | 透関院殿前刑部小輔機伝宗用禅定門 |
| 墓所 | 奈良県奈良市柳生町の芳徳寺 |
| 官位 | 従五位下刑部少輔 |
| 幕府 | 江戸幕府 小姓、徒士頭 |
| 主君 | 徳川家光 |
| 氏族 | 柳生氏 |
| 父母 | 柳生宗矩 |
| 兄弟 | 三厳、友矩、宗冬、列堂義仙、武藤安信室ら4男2女 |

柳生 友矩(やぎゅう とものり)は、江戸時代前期の武士。江戸幕府の旗本、将軍の近臣。通称は左門あるいは刑部。官位は従五位下・刑部少輔。
父は徳川将軍家の兵法指南を務めて柳生藩を立藩した柳生宗矩。異母兄に剣豪として知られる柳生三厳(十兵衛)、同歳の異母弟に柳生宗冬、列堂義仙がいる。生母は側室であり、友矩は庶子であった。徳川家光の勘気をこうむって致仕した兄・三厳に代わって家光に仕え、常に剣術の相手を務めるなど[注釈 1]大いに寵愛されたが早世した。
慶長18年(1613年)に柳生庄(現在の奈良市柳生町)で誕生した。寛永4年(1627年)に初めて家光に謁見し、その小姓となる[注釈 2]。寛永11年(1634年)の家光の上洛に供奉し、同年7月に徒士頭となる。8月には父・宗矩に並ぶ従五位下刑部小輔に叙任し、11月には山城国相楽郡の2000石の領地を授かるなど厚遇を受ける。その後、病にかかって職を辞し、父・宗矩の封地・柳生庄で静養するが、寛永16年(1639年)に27歳で死去した(『寛政重修諸家譜』では38歳とされる)。
墓所は、奈良市柳生町の芳徳寺にある。また、異母弟の宗冬は菩提を弔うために、友矩の居館を一寺とし、遺領の南大河原に十輪寺を建立している(『玉栄拾遺』)。