柳生清厳
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略歴
有望な嫡男
元和元年(1615年)柳生利厳の嫡男として誕生した。母は正室だというが、不明である[3]。初名は権平。
この年父・利厳は成瀬正成の推挙[4]により尾張藩主徳川義直に兵法師範として500石で仕えている[5]。
清厳は利厳から直々に新陰流を叩き込まれ、自身でも宝蔵院流槍術を習得していた。また読書・詩歌に勤しむなど文武両道の人物であった。
元服して新左衛門と名乗ると、徳川義直の小姓となり300石を賜った。清厳は新陰流の後継者として父・主君に大いに期待されていた。
病による絶望
しかし小姓就任直後、急病によって任を辞せざるを得なり、柳生の別宅で療養することになる。病床の清厳は衰弱し、家名を汚すことを恐れていたという。
健康のため有馬温泉へ通うなどの活動もみられているが、伝言などから死を望んでいたと考えられる。
死地を求めて
寛永14年(1637年)島原の乱が起きると、「吾不幸にして廃侯に嬰り、汚名身を辱しむ、豈久しく生きて人間に在らんや、命を此役に殞し、耻を雪ぎ憤を解くの愈れるに如かず」[6]と親しい者に言い残し、幕府軍軍監で清厳の交友でもある石谷貞清[7]に参陣を請うて、松倉勝家に属する。利厳ら家族には湯治を名目にして旅立ち、何も告げていなかったという。
12月27日、家人の安藤仁兵衛儀玄、武藤太左衛門儀信、草履取の彌蔵、槍持某[8]を連れて着陣、1月1日大将格の板倉重昌が総攻撃を行うと、清厳も先方軍として従って突撃した。
清厳は十文字槍を振るい、槍が傷むとこれを刀に替えるなど奮戦するが、板倉重昌が戦死する[9]と軍が崩れ、清厳も鉄砲に当たり戦死した。安藤仁兵衛儀玄[10]、武藤太左衛門儀信[11]、草履取の彌蔵[11]も清厳の後を追って討ち死にした。
清厳は24歳の若さであった。