柳生清厳

From Wikipedia, the free encyclopedia

柳生 清厳(やぎゅう きよとし、元和元年(1615年)‐寛永15年1月1日(1638年2月14日))は、江戸時代前期の武士尾張藩士、柳生新陰流剣術家通称、新左衛門。

時代 江戸時代前期
生誕 元和2年(1615年
別名 権平、新左衛門(通称)、任去斎、委心
概要 凡例柳生清厳, 時代 ...
 
柳生清厳
時代 江戸時代前期
生誕 元和2年(1615年
死没 寛永15年1月1日1638年2月14日
別名 権平、新左衛門(通称)、任去斎、委心
戒名 韶室宗陽禅定門
墓所 白林寺
幕府 江戸幕府
主君 徳川義直
尾張藩
氏族 柳生氏
父母 父:柳生利厳 母:不明[1][2]
兄弟 清厳利方厳包
テンプレートを表示
閉じる

略歴

有望な嫡男

元和元年(1615年柳生利厳の嫡男として誕生した。母は正室だというが、不明である[3]。初名は権平。

この年父・利厳は成瀬正成の推挙[4]により尾張藩徳川義直に兵法師範として500石で仕えている[5]

清厳は利厳から直々に新陰流を叩き込まれ、自身でも宝蔵院流槍術を習得していた。また読書・詩歌に勤しむなど文武両道の人物であった。

元服して新左衛門と名乗ると、徳川義直の小姓となり300石を賜った。清厳は新陰流の後継者として父・主君に大いに期待されていた。

病による絶望

しかし小姓就任直後、急病によって任を辞せざるを得なり、柳生の別宅で療養することになる。病床の清厳は衰弱し、家名を汚すことを恐れていたという。

健康のため有馬温泉へ通うなどの活動もみられているが、伝言などから死を望んでいたと考えられる。

死地を求めて

寛永14年(1637年島原の乱が起きると、「吾不幸にして廃侯に嬰り、汚名身を辱しむ、豈久しく生きて人間に在らんや、命を此役に殞し、耻を雪ぎ憤を解くの愈れるに如かず[6]と親しい者に言い残し、幕府軍軍監で清厳の交友でもある石谷貞清[7]に参陣を請うて、松倉勝家に属する。利厳ら家族には湯治を名目にして旅立ち、何も告げていなかったという。

12月27日、家人の安藤仁兵衛儀玄、武藤太左衛門儀信、草履取の彌蔵、槍持某[8]を連れて着陣、1月1日大将格の板倉重昌が総攻撃を行うと、清厳も先方軍として従って突撃した。

清厳は十文字槍を振るい、槍が傷むとこれを刀に替えるなど奮戦するが、板倉重昌が戦死する[9]と軍が崩れ、清厳も鉄砲に当たり戦死した。安藤仁兵衛儀玄[10]、武藤太左衛門儀信[11]、草履取の彌蔵[11]も清厳の後を追って討ち死にした。

清厳は24歳の若さであった。

遺言

清厳は敗勢の中死を悟って、槍持に「生死皆忠なりと、奴己むことを得ずして会に従ひ、清厳の死するに及びて、遺書と槍とを携へて還る」と言い、遺書と遺髪、血塗れた十文字槍を託し、遺書の中で無断で家を出たことを父に詫び、弟を残しながら孝行できなかったことを母[12]に謝罪した。弟らには「茂左、新六は母をよろしく頼む[13]と残している。

また姑夫[14]・天野四郎右衛門[15]には、「西風一陣来 黄葉頻辞枝 看々得春色 功名不朽時[16]と辞世の詩を残している。

槍持は激しく泣きながら無事に尾張へ遺書と遺髪、十文字槍を持ち帰っている。

死後

尾張柳生家の家督は利方に、尾張藩2代藩主徳川光友の指南役に厳包が就任している。

清厳は結婚せず、子はいなかった。

法名は「韶室宗陽禅定門」。遺髪は白林寺[17]に納められ、墓碑を建てられている。

参考資料

  • 正伝新陰流柳生厳長、株式会社島津書房、1989年2月
  • 『島原の乱』神田千里、中央公論新社、2005年
  • 『柳生一族』相川司、伊藤昭共著、株式会社新紀元社、2004年
  • 『定本大和柳生一族』今村嘉雄、人物往来社、1994年

脚注

Related Articles

Wikiwand AI