柳田和久 (歴史学者)

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柳田 和久(やなぎだ かずひさ、1950年昭和25年〉1月19日 - )は、日本の歴史学者郷土史家

福島県郡山市に生まれる。郡山商業高等学校を卒業、法政大学大学院博士課程を修了。財団法人郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団(現・公益財団法人郡山市文化・学び振興公社文化財調査研究センター)[1]職員として、郡山市史および福島県内の各市町村の歴史を中心に郷土史の研究に当たる。郡山市に伝わる歴史上の課題に果敢に挑戦してその解明に努力している。郡山市文化・学び振興公社文化財調査研究センター長を経て、郡山市文化財保護審議会[2]副会長を歴任した。

郡山市の歴史の課題

郡山城 (陸奥国安積郡)の城跡比定について

「 郡山町郷土誌」第貮編 夜討川 明治45年

中世16世紀における郡山城 (陸奥国安積郡)の城跡比定については、これまで長い間その位置は未詳であるとされてきた[3]。その理由は、郡山市の北西に位置する「西の内」の台地説と郡山駅近傍の「稲荷館」の説があり、それまでの史実資料と発掘調査をもってしては、いずれとも決める決定的な論拠と資料が得られてこなかったことが挙げられる[4]。しかし、1999年広永秀典が明治時代の地籍図と郡山市の江戸時代の今泉文書を基に「稲荷館」説を支持し、「西の内」説が誤りであると発表した[5]

この研究を承けて柳田和久は2001年、江戸時代の白河藩主松平定信が寛政9年(1797年)に著わした『退閑雑記』の記述が、その後の郡山市史を混乱させてきた主因であると指摘した。松平定信は白河から北の飯坂温泉に湯治に向かう途次、「西の内」台地の東麓を北の逢瀬川に向かって流れる細流「夜討川」(現在は暗渠となって見ることが出来ない)に至って、「伊達政宗と上杉景勝の合戦があった場所」と記していた。松平定信が指摘した合戦は、福島市近郊で行われた「松川合戦」であり、時代も場所も伊達政宗の対戦相手も郡山合戦とは異なっていた[6]

明治時代に入り松平定信の誤解がさらに次なる誤解を生み、『郡山町郷土誌』において「思うに天正年間の佐竹・伊達対陣の時のことならん」と誤った解釈が加筆されて史実資料と発掘調査による真実の究明が阻まれ、歴史研究の停滞を招いてきたことが明らかになった[7][8]。松平定信の誤信が誘因となって、江戸時代から現代にいたる200年間にわたり「郡山城」の比定が混迷を深めてきたことが明白となり、郡山市史の研究は長い間の桎梏から解放されて本来の史実の探求に立ち返ることが出来た[9]。「郡山城」城址比定に当たり、柳田和久は広永秀典とともに「稲荷館」説の確立に力を尽くした。

万葉集に歌われた安積香山の所在について

紫香楽宮跡から出土した万葉集木簡

右端が安積山とされる「額取山」

万葉集には安積香山を枕詞として歌った、次の一首が載っている。「安積香山 影副所見 山井之 淺心乎 吾念莫國」(あさかやま かげさえみゆる やまのいの あさきこころを わがおもわなくに)[10]、また左注には「右歌傳云 葛城王遣于陸奥國之時・・於是有前采女 風流娘子・・(右の歌は伝えて言うには葛城王が陸奧国に派遣された時に・・采女を務めてさがって来た女性がいた 風流な娘であった・・)」とある[11]。2008年に滋賀県甲賀市紫香楽宮(しがらきのみや)跡から発掘された木簡に、古墳時代仁徳天皇の即位を祝う「難波津」の歌と「安積香山」の歌が表裏にセットで記載されていたことから、万葉集が編纂される以前から「安積香山」の歌が天皇や皇族の間に歌われていたことが明らかとなった[12]。柳田和久は、この歌は本歌と左注は異なる時期に作られた別々なものとして扱う必要があったが、これまで同じ時期に作られた一体のものとして扱ってきたことから、安積香山の所在地問題が複雑化されてきたとして[13]、従来の説にこだわらない新しい立場から「安積香山」論議に一石を投じた。

二つの「安積山」と二つの「采女」伝説

不思議なことに、郡山市には万葉歌に詠われたとされる安積山が二つ存在する。1、郡山市西部の片平町の西にある標高1009メートルの「額取山(ひたいとりやま)」 2、郡山市北部の日和田町にある旧街道沿い小丘の「安積山」である[14]。さらに、地元にはそれぞれの山にかかる二種類の「采女」伝説が伝えられており、どちらの伝説も「安積香山」の歌は引用してもその位置については触れていない[15]。万葉集に記された「安積香山」はいずれの山を歌ったものであるか、長年にわたって「大和物語」を始めとする説話文学歌人能楽師文学者歴史家などに引用研究されながらも[16]、いずれが正しいか明確な位置を示す確たる記録は乏しく、二つの「安積山」は郷土の誇りとして共存し、「葛城王」「采女」「山の井」のキーワードと共に郡山市民に親しまれてきた[17]

横井博[18]は郡山市史において、「安積香山」は安積郡の山と固定して考えない方が事実に近いのではないかと指摘しており、より幅広い見地からの検討が求められていた[19]

紫香楽宮と紀貫之

天平17年(745年)正月元旦、紫香楽宮は「新京」と呼ばれ難波宮から遷都された。しかし、新しい都となってわずか4か月後に都は奈良平城京に戻されている[20]。紫香楽宮跡から出土した木簡からは、表裏にA.「阿左可夜麻(あさかやま)・・」の歌と、B.「奈迩波ツ尓(なにはつに さくやこのはなふゆこもり いまははるべとさくやこのはな)・・」と墨書された二つの万葉歌が判読された。二つの歌については、紀貫之が「古今和歌集」仮名序文の中で、「・・うたのちちははのやうにてぞ、・・」と述べて、二つの歌が手習いの父母としての基本であると説いており[21]、発見された木簡は紀貫之の言葉を裏付けるものとなった。同時に「安積香山」の歌は特異な歌として、万葉集編纂以前から天皇や皇族の間で詠まれ、語り伝えられてきたことが理解された[22]

万葉集の編纂は都が紫香楽宮から平城京に戻った後の8世紀の後半とされていることから[23]、本歌の「安積香山」の歌が紫香楽宮の造営以前に先に作られていて、後に紫香楽宮で万葉集木簡が作られ、左注は紫香楽宮から平城京に遷都した後の、万葉集編纂時に付け加えられたことが明確となった。これまでは「安積香山」の本歌と左注は、同じ時期に作られた一体のものであるとされてきたが、万葉集木簡の発見により、これらは異なった時期に作られた別個の性格を持つ二つのものが、万葉集編纂を機に一つに統合された可能性が高まった。

「安積香山」の歌はどこにある「アサカ」山を詠ったのか、葛城王が接待を受けた場所は安積郡であるか、歌の作者が「采女」であるか、「山井」は何処にあるのか、等については万葉集成立以来十数世紀を経て、新たな視点からの検討が必要となった[24]

難波津の「浅香山」と陸奥の「安積香山」

河内堺新川絵図 文化3年(1806)堺市立図書館所蔵

柳田和久は、山の地名である「安積香山」は万葉仮名の一音一字として考察すべきで、表記されている漢字が違うことで別な山とするのは当たらないとしている。紫香楽宮跡から出土した万葉集木簡には「阿左可夜麻」と記され、また『大和物語』と『十訓抄』では「安積山」、『新勅撰和歌集』や『伝世阿弥の能・采女』では「浅香山」と表記されている[25]日本古典文学全集の口絵には「大阪付近古地理図」[26]と題された万葉時代の復元地図が示されている。そこには、大阪湾の現在の堺市付近に「浅香山」と「浅香浦」が隣接してあり、古代において、陸奥の「アサカ」と比肩される地名が大阪府に存在したことが分かる[27]

大阪府堺市には、昭和の初めまで「浅香山」があり、きのこ採りや小学生が遠足に行く所だった、昭和30年代以後山が削られ住宅開発された[28]。江戸時代文化三年の古地図には、「浅香山」が海岸の松原沿いに記されており[29]、付け替えられた大和川(新川)が「浅香山」の手前で北に大きく迂回しているのが見える[30]。 「浅香山」の名は町、駅、学校、病院の名として古代から現代に引き継がれている[25]。万葉集には「浅賀の浦」「浅香潟」「安斉可潟」などの「アサカ」と表音される地名を含む複数の歌があり、これらの歌の地名は陸奥の「安積香」を指すのではなく、「難波」の地名を指すものであると考えられてきた[24]。万葉仮名を文字ではなく「音」で判読すると、難波津の歌も陸奥国の「安積香山」もすべて「アサカ」と表音できる。万葉仮名においては、一つの事物を同音の異なる漢字の組み合わせで表現することが行われており、「安積香山」の歌は陸奥国ではなく、難波にあった「浅香山」を指していると指摘した[14]

万葉集「安積香山」の本歌が、紫香楽宮跡で発見された万葉集木簡以前に作られていることが明確となったことから、葛城王が陸奥国に派遣された際にはこの歌は既に広く皇族・貴族の間で詠われており、采女はその有名な本歌を詠い葛城王の心を慰めたことになる、采女がこの歌を作ったのではない。『古今和歌集』「仮名序」は「・・あさかやまのことばゝ、うねめのたわぶれよりよみて・・」と述べて、「歌」としないで「言葉」という表現になっているのはそのためである[14]。采女が詠んだ歌の枕詞となっている「安積香山」は、必ずしも陸奥国にあるとは限らない、難波の「浅香山」が歌われているとするのが妥当であるとした。

郡山市で「アサカ」の地名が用いられたのは、飛鳥時代大化5年(649年)に「阿尺評(あさかのこおり)」が置かれて、奈良時代和銅6年(713年)に阿尺評から「安積郡」へと表記が変更されてからとされている[31][32]。一方で万葉集に歌われた「安積香山」がどこに位置する山であるかを示す資料は地元では発見されていない[33]。「安積山」が資料に見える初めての記述は、天正16年(1588年)6月のことである。「郡山合戦」において仙台藩伊達政宗は、敵の様子を見た後に、日和田の「安積山」に家臣を集めて軍議を開いている[34][35]。万葉集編纂からは約800年、『大和物語』からは約640年ほどの年月が経過している。

仁徳天皇と万葉集木簡

出土した万葉集木簡に記された表裏の二つの歌には共通のテーマがあるとるする。Aの「阿左可夜麻」の歌は皇后・岩之日売之命(いわのひめのみこと)が仁徳天皇に対する自らの深い愛情を示すことで天皇の人間性を表した歌であるとし、Bの「難波津」の歌は仁徳天皇即位を祝う気持ちを表現して天皇の政治的な立場を祝い、二つの歌は仁徳天皇を両面から詠んだ歌であるとした。一つの木簡に二つの歌を結びつけたのには編者の深い配慮が働いているとする。木簡の歌は、紀貫之が言うように単に歌の手本を示すだけに選ばれたものではなく、共通する意味合いを持つ歌を編者の意図に沿って一枚の木簡に集約させたものであるとした[36]

吉田昌によれば「浅香の浦」は大阪の「得名津(榎津)」港のことで[37][38]、瀬戸内海を経て得名津に上陸し、大津道か多比道を通り奈良に至る、五世紀代の倭王権が自らの権威と権力を誇示する重要な港であったとしている[39]。堺市の浅香山町の近くには仁徳天皇陵をはじめとする一族の陵墓が蝟集している。「浅香山」は「浅香浦」に隣接して、仁徳天皇ゆかりの土地と密接な関係があったと考えられる。これらのことから、「安積香山」の歌は古墳時代に難波津で歌われていた歌であると考える[40]

「大和物語」と伝世阿弥・謡曲「采女」

万葉集の編纂後約200年後の平安時代に成立した『大和物語』の「山の井の水」では、都の大納言に仕える内舎人が主人の娘を盗み出して陸奥国「安積郡」の「安積山」に庵を創り二人で住まう物語が記載されている。文中では万葉集歌「安積香山」を引用しながら、その内容は万葉集の本歌と左注からはかけ離れた創作となっている。その後も『今昔物語』、『古今著聞集』、『十訓抄』と説話文学は続いたが、長編・短編の相違はあるが内容はほぼ同じで、陸奥の「安積山」で娘は亡くなっている。『大和物語』以降300年にわたって続く説話文学の流れにより、万葉集に歌われた「安積香山」は陸奥国の安積山となって定着していった[41]

さらに室町時代に入り、世阿弥の晩年の作と伝えられる謡曲『采女』では、『拾遺和歌集』の歌から「猿沢の池」に身を投げた采女の物語が加えられて万葉集の「安積香山」の歌と一体になり、他の説話も取り入れて物語は一層複雑になっている[42]。柳田和久によれば、万葉集の「安積香山」の歌の左注には葛城王が陸奥國に遣わされたとあるだけで、安積香山の所在地については全く記載されていないにもかかわらず、『大和物語』以降の説話文学と謡曲『采女』などで内容が創り変えられ、陸奥国安積郡の安積山とされ、今日に至ったとしている[43]。郡山市にある二つの伝説は、これらの影響を受けて長い歴史の中で創り上げられて出来たものであるとした。

新しい歴史的課題

「古今和歌集」の紀貫之に指摘されるまでもなく、「安積香山」と言えばすなわち「和歌」を意味する、そうした共通の理解は広く我が国の文人たちの間に行き渡っていた[44]。その万葉集を代表する和歌に詠われた「安積香山」の歴史の真実は何処にあるのか、紫香楽宮跡で発見された万葉集木簡の発見を機に柳田和久によって提議された新しい歴史上の課題は、1200年を超える歴史に刻まれてきたこれまでの前提が大きく変化する可能性を含んでいる。今後の論議と検証を経て遠くない未来において解明されることが期待されている。

著書

共著

  • 『せたがやの歴史』 世田谷区役所 昭和51年9月。
  • 『日本地名事典 : 日本の代表地名2300の由来と歴史地名の基礎知識』 福島県歴史地名[45] 新人物往来社 昭和54年5月。
  • 『結城市史』第五巻・近世通史編 結城市史編さん委員会 昭和58年3月。  
  • 『郡山の文化財』 福島県郡山市教育委員会 昭和58年。
  • 『幕藩制社会の展開と関東』 村上直編 吉川弘文館 「享保期の新田開発と農民の動向について-武州多摩郡高倉原持添新田を事例として-」 昭和61年12月。
  • 『近世社会の支配と村落』 村上直編 文献出版 「結城藩領における改革組合村の編成について-個別領主権を中心に-」 平成元年9月。 
  • 『蕨市史』通史編 蕨市史編さん委員会 平成7年3月。
  • 『幕藩制社会の地域的展開』 村上直編 雄山閣出版 「寛延一揆の展開と守山藩の対応」 平成7年4月。
  • 『二本松市史』近世通史編 二本松市史編纂さん委員会 平成11年3月。
  • 『図説 郡山・田村の歴史』 郷土出版社 平成12年11月。
  • 『鉾田町史』通史編 鉾田町史編さん委員会 平成14年2月。
  • 『日の出町史』通史編 日の出町史編さん委員会 平成14年3月。
  • 『郡山の歴史』 郡山市史編さん委員会 平成16年10月。
  • 『郡山市史』続編3 通史編 郡山市史編さん委員会 平成16年9月。
  • 『大槻村最後の名主 相楽半右衛門伝』 私家版 平成16年11月。
  • 『長沼町史』第1巻・通史編 長沼町史編纂委員会 平成17年 3月。
  • 『白河市史』二・近世通史編2 白河市史編さん委員会 平成18年2月。
  • 『表郷村史』第1巻・通史編 表郷村史編さん委員会 平成25年3月。
  • 『郡山の歴史』 郡山市史編さん委員会 平成26年10月。

論文

  • 「関東における農村構造の変質と文政改革-主として武州多摩郡日野宿組合を中心に-」 『法政史学』第30号 昭和53年1月。
  • 「近世後期における渡船場について-特に日野渡船場を中心に-」 『交通史研究』第3号 昭和53年。
  • 「近世における宿場助成貸付金の役割について-武州多摩郡日野宿を中心に-」『信濃』第31巻第7号  昭和54年7月。
  • 「文化・文政期における彦根藩世田谷代官大場家の経営について」『法政大学大学院紀要』第3号 昭和54年
  • 「二本松藩の領内支配について」 『郡山地方史研究』第13集 昭和55年
  • 「二本松藩における江戸湾防備について」 『史楽』第10号 昭和56年   
  • 「二本松藩領笹川村における村落構造について」 『郡山地方史研究』第15・16集合併号 昭和61年1月。
  • 「文政2年の二本松藩領内巡見と農村復興政策について」 『福島史学研究』第50号 昭和63年7月。
  • 「二本松藩」(上・下)『歴史と旅』 平成2年1-2月
  • 「二本松藩領内のキリシタン類族の存在と監視について」 『福島史学研究』第54号 平成3年9月。
  • 「二本松藩における農村復興政策と二五人組編成について」 『地方史研究』第239号 平成4年10月。
  • 「近世後期における宿場本陣と飯盛奉公人」 『交通史研究』第31号 平成5年 
  • 「常陸国における文政改革と組合村の編成について」 鉾田町史研究『七瀬』第6号 平成8年
  • 「旗本飯河家の勝手向き暮方規定帳」 鉾田町史研究『七瀬』第9号 平成11年
  • 「郡山合戦と郡山城について」 『福島史学研究』第72・73号 平成13年
  • 「大鏑館について」 『郡山地方史研究』第32集 平成14年
  • 「誤った郡山の歴史認識」『あさかの学園学生会会報』第17号 平成14年
  • 「安積原野の利用状況と秣場争論について」 『福島史学研究』第75・76号 平成14年8月・15年3月。
  • 「郡山町の富商と家守の役割について」 『福島史学研究』第83・85号 平成18年9月・19年9月。
  • 「二本松藩領村々の郷蔵と蔵番人について」 『郡山地方史研究』第37集 平成19年3月。
  • 「二本松藩領の寛延一揆について」 『福島史学研究』第87号 平成21年3月。
  • 「二本松藩領内奥州街道沿いの宿場集落の形成について」 『郡山地方史研究』第39集 平成21年3月。
  • 「二本松藩領の初期村役人と村役人の移動について」 『福島史学研究』第89・90号 平成23年3月・24年3月。
  • 「安積疏水と近世の水利について」 安積開拓研究会編『中条政恒 安積事業誌 ― 翻刻と研究 ― 』所収 平成24年6月。
  • 「郡山上町・下町の形成と村役人・宿役人について」 『郡山地方史研究』第43集 平成25年3月。
  • 「近世における安積郡の水利について」 『福島史学研究』第91・92号 平成25年3月・26年3月。
  • 「小原田の歴史と文化財」『郡山史団連会報』第20号 平成27年3月。
  • 「郡山市域の渡船場の位置について」 『郡山史団連会報』第21号 平成28年
  • 「『万葉集』に歌われた安積香山の所在地について」 『福島史学研究』第94・95号 平成28年3月・29 年3月。
  • 「大槻原開墾と中条政恒の暗殺計画について」 『郡山地方史研究』第47集 平成29年3月。
  • 「守山藩領村々の火災と消火方法について」 『福島史学研究』第96号 平成30年3月。
  • 「阿武隈川の渡船場運営と役割について」 『郡山地方史研究』第49集 平成31年3月。
  • 「桑野村の入殖者と職業について ― 特に明治21年の居住者を中心に ―」 『郡山地方史研究』第50集 令和2年3月。
  • 「明治新政府直轄下の安積郡」 『郡山史団連会報』第27号 令和4年
  • 「桑野村の開墾地と編入地について」 『郡山史団連会報』第28号 令和5年
  • 「郡山の町昇格と町年寄の罷免運動について」 『福島史学研究』第103・104号 令和7年3月・8年。
  • 「桑野村の開墾地と編入地について」 『郡山地方史研究』第55集 令和7年3月。
  • 「関東取締出役が贋金鋳造者を捕縛」 『郡山史団連会報』第30号 令和7年
  • 「大槻原開墾を考える」 『街の灯こおりやま』NO89 令和7年
  • 「高知開墾協力組の山田原開墾と水利について」 『郡山地方史研究』第56集 令和8年。

連載

脚注

参考文献

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