郡山城 (陸奥国安積郡)
From Wikipedia, the free encyclopedia
さまよう郡山城址

郡山城は伊達氏に属する郡山氏(伊東氏)の居城、稲荷舘とも呼ばれる[1]。天正16年(1588年)佐竹義重を総大将とする葦名、二階堂、石川、岩城などの南部連合軍が郡山館を攻囲したため、伊達政宗は、救援のため自ら出馬し、両軍は逢瀬川を挟んで対峙し郡山合戦が行われた[2]。伊達政宗軍は北部の最上、大崎や相馬への備えもあり、郡山の陣に参集した将士は600の寡兵に過ぎず、南部連合軍4000には敵しがたい情勢にあった[3]。郡山城は逢瀬川の北岸にある伊達軍の主力とは切り離された南岸の孤立した位置にあって、周囲は南部連合軍の重囲の真っ只中にあり、郡山城と伊達軍主力との通路は遮断された[4]。佐竹・葦名勢は郡山の西の高台から鉄砲で郡山の町を攻撃したが、伊達政宗は、この戦いは郡山城の働きで決すると見て、鉄砲200挺・馬上武士30騎を送って郡山の防備を強化した[5]。城主の伊東太郎左衛門朝祐は連合軍の重圧に良く耐え孤城を守って降伏せず、郡山城は無事に生き残った[6]。
1975年2月発行の郡山市史第一巻によれば「郡山城」は、安積伊東一族が拠る諸城の一つとしながらも、「郡山城の位置については明らかでない」としている。さらに、同市史514頁の示唆するところによれば、確証はないが「①現在の郡山駅の近く、②夜討川の西北岸の西の内台地、のいずれかである」としている[7]。一方で同誌482頁では西の内台地の写真を掲載して 郡山城跡としている[8]。郡山市史自身が二つの説の存在を掲げながら、特段の根拠を示すこともなく一方の説を支持した写真が掲載されており、歴史書としてはあまりにも矛盾に満ちている。また、「稲荷館」を「郡山城」と比定した研究もあり[9]、「郡山城」の城址は史実の検証ができないままに混乱の中で彷徨してきた。市史の混乱に沿うように、その他の文献史料でも②の「西の内」台地説を支持するものが見られた[10]。
松平定信の呪縛

混乱の原因は、「西の内(地名は、茶臼館・幕ノ内・西の内と変遷)」説の根拠となった江戸時代の白河藩主松平定信が著した『退閑雑記』にあった[11]。寛政12年(1800年)松平定信が福島の飯坂温泉に湯治に出かけた折の記録として、郡山の「夜討川」に至った時に伊達政宗と上杉景勝の合戦があった場所と記している。しかし、この記述は天正16年(1588年)の「郡山合戦」ではなく、関ヶ原の戦いの東軍勝利に乗じて福島地方へ南下してきた伊達政宗の軍と上杉景勝軍の間で、慶長6年(1601年)に福島の松川で起こった「松川の戦い」に記すべきものであった[12]。上杉景勝が郡山で伊達政宗と戦った史実は存在しない。誤解はさらに続き、明治45年(1912年)に発刊された「郡山町郷土誌」では、「然れども之れは伊達・上杉対陣にあらず、思うに天正年間の佐竹・伊達対陣の時のことならん」との文章が加筆されて、松平定信の誤信が増幅されてしまった[13]。「郡山合戦」は古くから和歌の枕詞にも詠まれてきた「逢瀬川」を挟んで行われたものが、以後郡山合戦は地名「西の内」台地の東麓を北に流れる川幅僅か二間の逢瀬川支流、「夜討川」で行われかのごとく誤解が広がって行った[14][15]。松平定信の呪縛は、200年間にわたり郡山城の城址比定を混乱させてきた。
「西の内」と「稲荷館」
史実によれば「郡山合戦」の際には、「佐竹勢は郡山の西の高台に土山を二か所築き、町を見下ろして鉄砲で攻撃した」とあることから[16]、天正年間にはすでに郡山に「町」が形成されていたことが分かる。「西の内」は「幕ノ内」ともいわれ、郡山の西北の高台にあって「逢瀬川」の南岸に隣接しており、郡山の西の台地に陣を構える佐竹勢の陣営とは至近距離にあることになる[17]。ここに「郡山城」があるとすれば「郡山城」と「西の内」は同じ高台となり、史実の記述「町を見下ろす」と矛盾するばかりか郡山の町がどこにあるのか全く分からなくなってしまう。さらに「西の内」から「町」の中心部までの直線距離は約1500メートルであり、日本に渡来して数十年の火縄銃の射程距離を遥かにこえる遠距離であった。「西の内」説は「町」と「郡山城」を分断するものであり、史実との矛盾を一層深めることとなった[18]。郡山市では「西の内」説を確認するため、1982年の第一次発掘調査から、さらに1998年以降本調査、試掘調査など計9度にわたり発掘調査を行った。しかし、縄文土器・弥生土器などの遺物の発掘はあったものの、館跡の築造時期や郡山城の存在を示す手がかりは得られなかった[10]。
一方で「稲荷館」は郡山町の中心部東に隣接してあり、館が消滅した江戸時代にあっては二本松藩により郡山組・大槻組・片平組の安積三組の代官所が置かれ、さらに明治時代からは町役場が置かれて時代を越えて歴史的に行政の要を担う位置にあった。さらに代官所の一郭には稲荷社が鎮座していた[19]。「稲荷館」は郡山の発展とともに、「代官所」、「郡山町役場」、「郡山町立商業補習学校」[20]、「郡山町立子守学校」[21]
とその役割を変えてきたが、その歴史的な重要性を認識してきた市民は、「陣屋」の呼称を現在に引き継いでいる[22]。郡山町の西手には、現在の郡山市立金透小学校・善導寺・清水台に連なる高台があり、郡山町と「稲荷館」を見下ろす位置にある[18]。両者の距離は約300メートルであり、この距離では火縄銃の殺傷力は乏しく威嚇程度の射撃であった[23]。
「郡山城」の城址は「稲荷館」
「郡山城」の城跡は、1999年広長秀典により、江戸時代に郡山町の上町検断を勤めた今泉家文書と明治20年(1887年)の「稲荷館」の地籍図に基づき、「稲荷館」が郡山城址であると発表された[24]。また2001年柳田和久により、広長説を支持しつつも城址比定迷走の主因が、白河藩主松平定信の誤信とこれを踏襲した後世の史学の停滞に基づくことが指摘された[25]。さらに、 垣内和孝『郡山の城館』により「稲荷館」説は支持された[2]。これらの文献史学を中心とした研究により、郡山城址は従来認識されてきた郡山市「西ノ内」台地の遺跡ではなく、陣屋の地名が残る郡山市駅前の「稲荷館」跡周辺であることが確認された。しかし、「西の内」説が長らく歴史界と行政一般に浸透してきたことと、「稲荷館」周辺地が郡山宿とその後の郡山市の中心地であったことが災いして、現地調査が全く進まないままに市街地開発が進み、「稲荷館」説は手がかりを得ることが出来ないまま時間が経過してきた。2022年、郡山市は文献史学の成果に力を得て、遺跡調査の僅かのチャンスをつかみ初めて稲荷館の第1次発掘調査を実施した[26]。その最大の成果は、主郭と副郭を画する1号堀を確認したことである。これにより、郡山城の位置は従来指摘されていた郡山市「西ノ内」の遺跡ではなく、陣屋の通称地名がある郡山市駅前の「稲荷館」跡周辺であることが確認された。研究者待望の発掘調査で、文献史学の成果が確かめられた意義は大きい。これにより、「西の内」遺跡は郡山城であるとされてきた立場を失い、伊達勢と対峙した南部連合軍の佐竹勢の陣場であることが明らかになった[27]。江戸時代から200年の時を経て揺曳してきた「郡山城」の城址比定は、松平定信の桎梏から解放されて「稲荷館」と定まった。歴史は教科書の中にあるのではなく、いつも生活をしているその生活や足元にある。市街化が極端に進んだ現状の中にあっても、障害を乗り越え足元を掘り続けて「郡山城」の真実が一層明確になることが望まれる[28]。
参考文献
- 郡山市『郡山市史・第1巻』1975年2月。
- 郡山市『郡山市史・第4巻』1969年4月。
- 郡山市『郡山市史・第8巻』1973年11月。
- 広長秀典『郡山城の再検討』福島史学研究第69号、1999年。
- 柳田和久『郡山合戦と郡山城について・上』福島史学研究第72号別刷、2001年、1-24頁。
- 柳田和久『郡山合戦と郡山城について・下』福島史学研究第73号別刷、2001年、27-32頁。
- 広長秀典『郡山城を行く』街こおりやま社、2009年9月、23-31頁。
- 郡山市『郡山の歴史』2014年、47-48頁。
- 垣内和孝『郡山の城館』歴史春秋社、2015年、26-27頁。
脚注
- ↑ 柳田和久『郡山合戦と郡山城について・上』福島史学研究第72号別刷、2001年、4頁。
- 1 2 垣内和孝『郡山の城館』歴史春秋社、2015年、26-27頁。
- ↑ 『郡山市史・第1巻』, p. 501.
- ↑ 『郡山市史・第1巻』, pp. 500–503.
- ↑ 『郡山市史・第8巻』, p. 198.
- ↑ 『郡山市史・第8巻』, pp. 199–201.
- ↑ 郡山市『郡山市史・第1巻』1975年2月、514頁。
- ↑ 郡山市『郡山市史・第1巻』1975年2月、482頁。
- ↑ 『会津・仙道・海道地方諸城の研究』 沼館愛三 伊吉書院 1980年11月 pp.189-190.
- 1 2 『全国文化財総覧・郡山館』 郡山市埋蔵文化財発掘調査事業団 『郡山館跡』1998
- ↑ 柳田和久『郡山合戦と郡山城について・上』, pp. 8–10.
- ↑ 柳田和久『郡山合戦と郡山城について・上』福島史学研究第72号別刷、2001年、8-9頁。
- ↑ 柳田和久『郡山合戦と郡山城について・上』, p. 10.
- ↑ 「夜討川」は現在は一部は暗渠として、一部は「せせらぎこみち」として変貌しており、川としての存在は消滅している。
- ↑ 柳田和久『郡山合戦と郡山城について・上』, p. 8.
- ↑ 広長秀典『郡山城の再検討』福島史学研究第69号、1999年、37頁。
- ↑ 柳田和久『郡山合戦と郡山城について・上』, p. 14.
- 1 2 柳田和久『郡山合戦と郡山城について・下』福島史学研究第73号別刷、2001年、28-29頁。
- ↑ 郡山市『郡山の歴史』2014年、60頁。「安積三組の代官所の絵図」 。
- ↑ 『郡山市史』第4巻 pp.518-519、『郡商同窓会・会員名簿』 福島県立郡山商業高等学校 1976年3月 pp.20-23。.
- ↑ 『郡山市史』第4巻 p.510、 『郡山市街界全圖』 1909年3月 郡山中央図書館藏。.
- ↑ 『郡山の歴史』 郡山市公民館 「講座テキスト」 1956年11月 p.13.
- ↑ 柳田和久『郡山合戦と郡山城について・上』, p. 12.
- ↑ 広長秀典『郡山城の再検討』福島史学研究第69号、1999年、35-37頁。
- ↑ 柳田和久『郡山合戦と郡山城について・上』福島史学研究第72号別刷、2001年、1-24頁。
- ↑ 『稲荷館跡(郡山城)――第1次発掘調査報告書―』2022年4月
- ↑ 柳田和久『郡山合戦と郡山城について・下』福島史学研究第73号別刷、2001年、32頁。
- ↑ 広長秀典『郡山城を行く』街こおりやま社、2009年9月、31頁。