柴壁の戦い
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合戦まで
建元19年(383年)、前秦が淝水の戦いで東晋に大敗を喫して弱体化すると、配下部族の自立が相次いだ。その中で羌の姚萇が後秦を、代の皇族の生き残りであった拓跋珪(道武帝)が北魏を建国して自立する。後秦は姚萇、その息子の姚興の時代にかけて旧主の苻堅をはじめとする苻氏一党を殺戮して前秦を滅ぼし、さらに後仇池・西秦・東晋なども圧迫して勢力を拡大した。一方の北魏も後燕を滅ぼして勢力を拡大していた。
華北の二大勢力となった両国は、やがてオルドスの支配をめぐって衝突する。この時は後燕と衝突していた北魏が敗れてオルドスは後秦に奪われた。
柴壁の戦い
天興5年(402年)5月、後秦の姚興は弟の姚平を派遣して北魏領の平陽を攻撃させた[1]。これに対して北魏は道武帝が親征して平陽南部の柴壁で姚平軍を包囲した[2]。これを知った後秦も姚平救援のため、姚興自らが親征したが、救出することはかなわず、姚平軍は北魏により全滅させられた[2]。