柴田勝敏
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記録と生涯
江戸時代に旗本柴田家[注釈 1]から提出された家譜に基づいて編纂された『寛永諸家系図伝』(以下『寛永譜』)および『寛政重修諸家譜』(以下『寛政譜』)によれば勝家の養子(実父は不明)で、通称「権六」(諱は不明)として兄弟の先頭[注釈 2]に掲載されている[2][3]。『寛政譜』編纂時に提出された家譜では、幼名が「於国丸」、通称が「権六郎」で、「勝敏」[注釈 3]とも名乗ったという[3]。
養子説では、母は勝家の妹とされる[1]。実子とする見解もある[注釈 4]。後述の通り天正11年(1583年)に16歳で没したとするならば、永禄11年(1568年)生まれとなる。天正9年(1581年)に北ノ庄を訪問したルイス・フロイスが、人々が「勝家を上様と称し、勝家の子を殿様と呼んでいる」と伝えている[5]が、和田裕弘はこの勝家の子を「権六」のこととしている[6]。
滝川一益の娘が妻になったとされる[6][7][注釈 5]。和田裕弘は、フロイスの書簡に「信長の娘が勝家の嫡子に嫁いだ」とあるのは、滝川一益の娘が信長の養女となったのであろうとする[6]。
賤ヶ岳の戦いでは、突出した佐久間盛政を説得するために勝家から派遣された[1]。その後、秀吉軍の攻撃を受けて捕らえられたという[1]。
天正11年(1583年)5月12日に斬られ、16歳で没したという[1]。『寛政譜』では、16歳で京都において自殺とあるが、時期の記載はない[3]。