柴田天馬
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島津藩フランス語学者で教育家でもあった柴田圭三の長男として鹿児島県薬師町に生まれる。本名は一郎。神田共立学校卒業後、東京法学院(現在の中央大学)に学ぶ。1905年朝鮮新聞特派員として満州に渡り安東新聞編集長を務めた後、南満州鉄道等に勤め、1947年帰国。
『聊斎志異』は1905年の初夏、投宿していた旅館の主人から貸し出された幾つかの小説の中に偶然に見つけたものという。満鉄入社後読書会雑誌の編集を担当することになったことがきっかけで同誌に翻訳を載せ始め、1919年に三十四篇を単行本として刊行した。
1925年には満鉄を辞して翻訳に没頭し、満鉄系組織の機関紙『満蒙』にて1927年から1943年まで連載を続けた。その間全訳の刊行としてまず第一冊を1933年に刊行したがすぐ発禁処分を受け中断を余儀なくされる。
敗戦後の引き揚げの際には全ての翻訳原稿を失ったが、大佛次郎などの尽力もあり[4]1951年になって漸く創元社から全訳の刊行が成り、その後も修道社[5]や角川文庫から出版されて天馬訳は広く知られるようになった。