根岸友山
1809-1890, 武蔵国大里郡冑山村(現在の熊谷市)出身の壬生浪士隊隊士、庄内藩新徴組取締役
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生涯
1809年(文化6年)豪農根岸信保の長男として、武蔵国大里郡甲山村(現・熊谷市冑山)に生まれる[2]。1824年(文政7年)家督相続により、根岸家11代目当主として伴七を襲名。甲山村名主・野廻役となる。1827年(文政10年)比企郡小川村の笠間さわと婚姻[2]。
1833年(天保4年)自宅に漢学塾三余堂を開き[2]、忍藩藩校の教授芳川浪山や儒学者寺門静軒を招いて授業をおこなう。1835年(天保6年)剣術道場振武所を開く[2]。のちに剣術は千葉周作に学んだ[2]。1839年(天保10年)に発生した蓑負騒動の責任を取るため、1841年(天保12年)に江戸十里四方追放となる[2]。追放期間は領主である筒井紀伊守の領地である上野国新田郡細谷村にて居住する。1855年(安政2年)甲山村に戻る[2]。
1860年(万延元年)、長州藩と密約を結び、尊王攘夷運動に身を投じていく。1863年(文久3年)、将軍・徳川家茂上洛に伴い江戸幕府によって組織された浪士組に参加[2]。近藤勇、芹沢鴨らとともに京都に残る。その後、遠藤丈庵、清水五一らとともに「伊勢参詣」を理由に壬生浪士組を脱走して江戸に戻り、同年5月19日に庄内藩新徴組取締役(庄内藩と新徴組の連絡係)に就任するがすぐに退任。以後は討幕の意志を固めた。鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が負けると盛大に祝ったという[要出典]。1866年(慶応2年)武州一揆により自宅が襲われた[2]。
1868年(明治元年)勤王論を説く『吐血論』を刊行[2]。著書中で、当時処刑に対して同情を集めていた近藤勇を痛烈に批判する[要出典]。
維新後は明治政府に対し、廃藩置県や治水事業に関する建白書を提出したほか、神道を重視し、各地の神社を修理補修する事業をおこなった。
1890年(明治23年)死没。墓は冑山共同墓地(埼玉県熊谷市)にある。
くまがや市商工会による友山まつりが行われている[3]。
