桂南天
From Wikipedia, the free encyclopedia
- 初代桂南天 - 本項を参照。
- 2代目桂南天 - 当該項目で記述。
| 初代 | |
結三柏は、桂米朝一門の定紋である。 | |
| 本名 | 竹中 重春 |
|---|---|
| 生年月日 | 1889年 |
| 没年月日 | 1972年9月20日 |
| 出身地 | |
| 死没地 | 大阪 |
| 師匠 | 大和家小宝楽 2代目桂南光 |
| 名跡 | 1.桂重光(1903年 - 1907年) 2.桂仁助(1907年 - 1914年) 3.桂春堂(1914年 - 1915年) 4.月亭名遊(1915年 - 1919年) 5.初代桂南天(1919年 - 1972年) |
| 活動期間 | ? - 1972年 |
| 活動内容 | 仁輪加 色物諸芸 |
| 家族 | 大和家小宝楽(父) |
| 所属 | 吉本 他 |
| 主な作品 | |
| 「諸芸十八般」 | |
初代 桂 南天(かつら なんてん、1889年 - 1972年9月20日)は、明治から昭和にかけての上方落語の落語家(上方噺家)[1]。本名: 竹中 重春[1]。
大阪市東区(現・中央区)に生まれる[1]。父は仁輪加師の大和家小宝楽[1]。
最初は父の元で大和家小宝(やまとやこだから)を名乗り仁輪加をする。1903年ごろに[要出典]落語家の2代目桂南光(後の桂仁左衛門)に入門して重光を名乗る[1]。その後、1907年に[要出典]仁助、1914年に桂春堂、1915年に月亭名遊[要出典]を経て、1919年から1920年ごろに[要出典]南天となる[1]。
1927年には吉本興業を退き、「落首記念」と洒落て挨拶状を各位に贈る。後に5代目笑福亭松鶴の主催する「楽語荘」に参加した。[要出典]
1964年に堺市の羽衣荘で舞台60年の記念会を開催した[要出典]。
1969年秋、3代目桂米朝の独演会に招かれた際に、楽屋の入口で「不審者が入らないための見張り」を頼まれたのちの3代目桂南光(正式な入門前で、高校生の身分で10代目桂小米から指導を受けていた)が「変な汚いおじいさん」が入ろうとしたため何度も追い返していたところ、それを見た米朝に「その人は南天師匠や!」と言われたという[2]。
1972年9月20日に死去[1]。享年84(満82歳もしくは83歳没)。残された親族もほとんどいなかったため、法要は米朝が施主となり、大阪市西成区玉出の光福寺で行われた。出席者は、東京の林家彦六(当時は8代目林家正蔵)、花菱アチャコ、花柳芳兵衛(初代桂小春團治)など、錚々たる顔ぶれであった。法名は遊光院釋南天。[要出典]
芸風・人物
持ちネタは膨大で、小咄はほとんど無数に近いほど記憶していた[要出典]。非常に芸達者な人でもあり、「諸芸十八般」(「武芸十八般」の洒落)[要出典]と称し、紙切り、錦影絵、指影絵、滑稽手品、記憶術、軽口、寄席踊り(乞食のずぼら踊り)、一人喜劇[要出典]などを物にした[1]。本業の落語よりも色物として活躍することが多かった。芸人としては、いわゆる器用貧乏に終わり、生活には恵まれなかったが、それを苦にすることもなかった。[要出典]
個人で演芸大会を開いたり、巡業中は二つの名を使い分けたりなどもしたという。戦後は噺家不足となったため、『口合按摩』『さかさまの葬礼』などの落語もよく高座に掛けた。録音は1965年頃に収録した「口合按摩」(3代目桂米朝所蔵)、映像では読売テレビの「ずぼら」の一部の映像が現存する。[要出典]
後輩の米朝は、南天に私淑して多くの稽古や聞き取りをしており、上方芸能の遺産を次代へ引き渡す役回りを担った。南天が演じていた錦影絵は、口伝により現在でも桂米朝一門で継承されている。また遺品、写真なども米朝宅に多く保存されている。[要出典]