桂南天

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桂 南天(かつら なんてん)は、上方落語名跡

  • 初代桂南天 - 本項を参照。
  • 2代目桂南天 - 当該項目で記述。

本名竹中 重春
生年月日1889年
没年月日1972年9月20日
初代 かつら 南天なんてん
初代 桂(かつら) 南天(なんてん)
結三柏は、桂米朝一門の定紋である。
本名 竹中 重春
生年月日 1889年
没年月日 1972年9月20日
出身地 日本の旗 日本 大阪府大阪市
死没地 大阪
師匠 大和家小宝楽
2代目桂南光
名跡 1.桂重光(1903年 - 1907年)
2.桂仁助(1907年 - 1914年)
3.桂春堂(1914年 - 1915年)
4.月亭名遊(1915年 - 1919年)
5.初代桂南天(1919年 - 1972年)
活動期間 ? - 1972年
活動内容 仁輪加
色物諸芸
家族 大和家小宝楽(父)
所属 吉本
主な作品
「諸芸十八般」

初代 桂 南天(かつら なんてん、1889年 - 1972年9月20日)は、明治から昭和にかけての上方落語落語家上方噺家[1]。本名: 竹中 重春[1]

大阪市東区(現・中央区)に生まれる[1]。父は仁輪加師の大和家小宝楽[1]

最初は父の元で大和家小宝(やまとやこだから)を名乗り仁輪加をする。1903年ごろに[要出典]落語家の2代目桂南光(後の桂仁左衛門)に入門して重光を名乗る[1]。その後、1907年[要出典]仁助、1914年に桂春堂、1915年に月亭名遊[要出典]を経て、1919年から1920年ごろに[要出典]南天となる[1]

1927年には吉本興業を退き、「落首記念」と洒落て挨拶状を各位に贈る。後に5代目笑福亭松鶴の主催する「楽語荘」に参加した。[要出典]

1964年堺市羽衣荘で舞台60年の記念会を開催した[要出典]

1969年秋、3代目桂米朝の独演会に招かれた際に、楽屋の入口で「不審者が入らないための見張り」を頼まれたのちの3代目桂南光(正式な入門前で、高校生の身分で10代目桂小米から指導を受けていた)が「変な汚いおじいさん」が入ろうとしたため何度も追い返していたところ、それを見た米朝に「その人は南天師匠や!」と言われたという[2]

1972年9月20日に死去[1]享年84(満82歳もしくは83歳没)。残された親族もほとんどいなかったため、法要は米朝が施主となり、大阪市西成区玉出の光福寺で行われた。出席者は、東京の林家彦六(当時は8代目林家正蔵)、花菱アチャコ、花柳芳兵衛(初代桂小春團治)など、錚々たる顔ぶれであった。法名は遊光院釋南天。[要出典]

芸風・人物

持ちネタは膨大で、小咄はほとんど無数に近いほど記憶していた[要出典]。非常に芸達者な人でもあり、「諸芸十八般」(「武芸十八般」の洒落)[要出典]と称し、紙切り錦影絵指影絵、滑稽手品記憶術軽口寄席踊り(乞食のずぼら踊り)、一人喜劇[要出典]などを物にした[1]本業の落語よりも色物として活躍することが多かった。芸人としては、いわゆる器用貧乏に終わり、生活には恵まれなかったが、それを苦にすることもなかった。[要出典]

個人で演芸大会を開いたり、巡業中は二つの名を使い分けたりなどもしたという。戦後は噺家不足となったため、『口合按摩』『さかさまの葬礼』などの落語もよく高座に掛けた。録音は1965年頃に収録した「口合按摩」(3代目桂米朝所蔵)、映像では読売テレビの「ずぼら」の一部の映像が現存する。[要出典]

後輩の米朝は、南天に私淑して多くの稽古や聞き取りをしており、上方芸能の遺産を次代へ引き渡す役回りを担った。南天が演じていた錦影絵は、口伝により現在でも桂米朝一門で継承されている。また遺品、写真なども米朝宅に多く保存されている。[要出典]

脚注

参考文献

関連文献

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