桂弥一
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嘉永2年(1849年)12月10日、長府藩士桂助左衛門久澄の子として長府に生まれる。父は12代桂土左衛門(大江久澄)、母は原田則朗(金弥)の娘で、末子であった[1]。幼少期は8歳で三吉幸之助・土生静馬に書画・読書を学び、11歳より山田易之助・井上源三郎に師事して小笠原流を修めた。12歳のとき、のちの大将乃木希典(当時は乃木無人)とともに菅文達に学び、漢籍の素養を身につけた[2]。
元治元年(1864年)、桜柳亭に在籍中に四国艦隊下関砲撃事件が起こり、従軍を志願するも許されず、山上から攘夷戦を望見した。その後、愛国の情を抑えがたく、乃木希典らとともに長府藩の報国隊に参加し、血盟を結んで行動をともにした。慶応2年(1866年)には野砲隊の伍尾(半隊長)として長州征伐に出陣し、小倉口で幕府軍と交戦、弾丸の洗礼を受けた。
明治元年(1868年)、戊辰戦争において北越戦争に小隊長として出戦し奮戦、その功により三世まで年金35両の賞典を下賜された[1]。明治2年(1869年)には桂専太郎を正使とする使節団に加わり、長府藩の使者として筑前藩に赴いて功を挙げた。
明治3年(1870年)、藩の練習生として選抜されるも、修業中にマラリアを患い重篤となり帰郷。明治4年(1871年)には長府で近衛親兵の養成に携わり、教え子を2度にわたり東京へ送った。同年11月、藩費により上京し築地で仏人教師ミイドン・ギュイアールに師事してフランス語を学ぶが、脚気を発症して大学病院に入院。当時27人の患者のうち生存したのは2名のみであり、桂はお雇医師ホフマンの勧めによるパンと牛乳を用いた療法によって九死に一生を得た[2]。この際、木村屋總本店のパンを取り寄せたことが縁となり、同店と親交を結んだとされる。木村屋はこの縁で大学病院お抱えとなり栄えたという。明治5年東京からの帰途友人と邂逅して大阪に滞在し、そこで養蚕の研究を行った。養蚕教師の免状を受けて帰省した。
明治8年(1875年)、単身上京して新宿勧農寮試験場(新宿農場)に勤務。翌年の解散後は、下総種畜場設置のため身分を秘して土工頭・飯田縫左衛門の支配下に入り込んで開墾事業に従事し、のち勧農寮下総種畜場(後に一部は三里塚種畜場となり宮内省管轄)の三等牧夫として採用された。牧畜指導にあたり、のちに牧監まで累進した。この間、種畜場を視察しに来た児玉源太郎、乃木希典らに身分が知れ、のちに牧監まで昇進する。大久保利通の勧めによって来場した金原明善、品川弥二郎らと親しくなり交流を持った[3]。この種畜場において桂の指導を受けたものは西南戦争参加の青年200名を超えたが、その中にはのちに代議士となり水産王と称せられた川島瀧蔵や児玉源太郎紹介の多々良百助(寺内正毅夫人の弟)、渋沢栄一の甥・田中栄八郎らがいる。
明治18年(1885年)、感謝状を受けて同場を辞し、毛利家の東那須野牧場において開墾・牧畜指導にあたった。同事業は初め栃木県営にやって着工されていたが成績が上がらぬため桂の開墾牧畜の経営手腕に信頼し、品川の懇願によって指導に当たることとなったのである。さらに西郷従道の援助を受け、日本初期の畜産専門誌『牧畜雑誌』を創刊・主宰した。当時牧畜は国策として重視され、岩崎弥太郎、渋沢栄一、山縣有朋、西郷従道、大山巌らが地所を割り当て牧畜開墾に着手したころ、桂は指導或いは監督を委ねられること多かった。明治26年(1893年)には大倉喜八郎の依頼により門司築港工事の斡旋・監察に従事。
明治28年(1895年)、郷里長府に帰り小牧場を営み、郷土公共事業に尽力した。この頃、後の実業家中山太一が桂の元でその薫陶を受けた。乃木希典とは少年時代以来の無二の親友であり、乃木が郷里通過の際は必ず桂の家に立ち寄ったという。当時乃木の自刃に際しては桂宛の遺書が残された。
昭和14年5月上京し、知人親戚と歓談して松岡洋右と加藤完治主催の茨城県内原の青少年義勇軍訓練所を視察した。6月2日離京の前日には頭山満、徳富蘇峰夫妻、海軍大将山本英輔らと会して快談。帰京後数日後に神経痛の気味があるといい医者の治療を受け平常と異なることなく見えたが突然心臓麻痺の症状に陥り、昭和14年(1939年)6月19日、長府にて病没。維新の功績により従六位を追贈された[4]。
脚注
参考文献
- 『防長維新関係者要覧』山口県地方史学、1969年。
- 『偉人桂弥一翁を語る 桂翁記念出版 第一輯』太陽閣、1940年。