桂文治郎
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現在の大阪府大阪市中央区高津にあった銀細工職人の家に生まれる[2]。3代目桂文三(当時扇枝)の芸に触れたことで、落語家志望となる[2]。落語家入門前から稽古屋に通った[2]。
3代目笑福亭松鶴門下に入り笑福亭松葉を名乗る[2][3]。後に一座を組み地方廻りに転じたが[要出典]、やがて2代目桂梅枝門下に移り枝吉を名乗る[2][3]。梅枝の死後、5代目林家正三門下に移り正朝と[2][3]、師匠を転々とする。
最後に2代目桂文團治門下となり、桂小圓治となる[2][3]。この時期までは、音曲を演じていた[2]。1912年に上京した際、東京に三遊亭小圓治がいたので紛らわしいため、文治郎に改名[2][3]。その後、三友派内で軽視されていることに不満を持ち、草創期の吉本興業・花月派に移籍[2]。移籍を機に素噺に転じて以降は、中堅どころとして人気を得た[2]。
1928年、昭和天皇の御大典記念観兵式の際に、秩父宮雍仁親王・高松宮宣仁親王・賀陽宮恒憲王の前で『義太夫息子』を演じ「私ら下々のものはカカアのこと、いや妻のことをオイと申します…」とやって、彼らに大いに受け、後にそれを自慢をしていた[要出典]。