桂文治郎

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本名飯田 竹治郎
生年月日1878年
没年月日1948年6月2日
出身地日本の旗 日本 大阪
(現・大阪府大阪市中央区高津
初代 かつら 文治郎ぶんじろう
本名 飯田 竹治郎
生年月日 1878年
没年月日 1948年6月2日
出身地 日本の旗 日本 大阪
(現・大阪府大阪市中央区高津
師匠 3代目笑福亭松鶴
2代目桂梅枝
5代目林家正三
2代目桂文團治(7代目桂文治)
弟子 桂文蝶
名跡 1.笑福亭松葉
2.桂枝吉
3.林家正朝
4.桂小圓治
5.桂文治郎
活動期間 ? - 1948年?
活動内容 上方落語
音曲
素噺
所属 三友派
吉本
主な作品
立ち切れ線香

初代 桂 文治郎(かつら ぶんじろう、1878年 -1948年6月2日[1][注釈 1]は、上方噺家。本名: 飯田 竹治郎[2]

現在の大阪府大阪市中央区高津にあった銀細工職人の家に生まれる[2]3代目桂文三(当時扇枝)の芸に触れたことで、落語家志望となる[2]。落語家入門前から稽古屋に通った[2]

3代目笑福亭松鶴門下に入り笑福亭松葉を名乗る[2][3]後に一座を組み地方廻りに転じたが[要出典]、やがて2代目桂梅枝門下に移り枝吉を名乗る[2][3]。梅枝の死後、5代目林家正三門下に移り正朝と[2][3]、師匠を転々とする。

最後に2代目桂文團治門下となり、桂小圓治となる[2][3]。この時期までは、音曲を演じていた[2]1912年に上京した際、東京に三遊亭小圓治がいたので紛らわしいため、文治郎に改名[2][3]。その後、三友派内で軽視されていることに不満を持ち、草創期の吉本興業・花月派に移籍[2]。移籍を機に素噺に転じて以降は、中堅どころとして人気を得た[2]

1928年昭和天皇御大典記念観兵式の際に、秩父宮雍仁親王高松宮宣仁親王賀陽宮恒憲王の前で『義太夫息子』を演じ「私ら下々のものはカカアのこと、いや妻のことをオイと申します…」とやって、彼らに大いに受け、後にそれを自慢をしていた[要出典]

晩年は演芸から遠ざかり[2]新世界花見小路で料亭「十郎」を営みながら寄席に出ていた[要出典]

芸風

立ち切れ線香』『仕込みの大筒』『百年目』などの茶屋噺が得意ネタだった[2]SPレコードとして『親子茶屋』の口演が記録されている[2]

弟子

脚注

参考文献

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