桑原羊次郎
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慶応4年4月18日(1868年5月10日)、代々松江藩両替商を務めた「桑屋太助」本家の6代目・愛三郎の次男(第4子)として生まれた。明治9年(1876年)より内村友輔(鱸香)の私塾「相長舎」に通う。明治14年(1881年)5月、本町小学校上等科を卒業し、同年9月に松江中学校へ入学した。在籍当時の松江中学校長は渡辺譲で、初等中学科での同級生には桂田猪熊・林玉之助・小倉寛一郎・成相伴之丞・森田龍次郎がいた。
明治18年(1885年)7月に中学を卒業した後、上京して神田錦町に新設された英吉利法律学校に入学する。在籍当時の校長は創立者の一人である増島六一郎で、講師には菊池武夫・岡村輝彦・奥田義人・土方寧・平沼騏一郎・馬場愿治らがいた。また、後に外務大臣となる小村寿太郎が「英国法律」を講義していた。明治22年(1889年)9月、英語法学科の第1期生として特別認可部を卒業した。
明治22年(1889年)、桑原本家7代目を継いでいた兄・猪太郎が27歳で病死したため、急遽松江に帰郷して本家8代目の家督を相続することになった。翌明治23年(1890年)、佐々木佐吉郎・諏訪部彦次郎らとともに私立松江法律学校を殿町に創立し、支持を仰いだ岡崎運兵衛が名誉校長に、羊次郎が校主兼講師となったが、明治24年(1891年)、羊次郎が渡米の意志を持って再び上京すると、同校はこの留守中に廃校となった。
明治24年(1891年)、上京した羊次郎は菊池武夫、小村寿太郎宅を訪問し、アメリカ留学について助言を得た。同年10月、横浜港から出発して渡米し、ミシガン大学では同校卒業生並の待遇で大学院に入学、明治25年(1892年)6月「マスター・オブ・ロース」(Master of Laws:法学修士)の学位を得た。
再び松江に帰郷し、明治27年(1894年)8月、松江商業会議所の特別会員に当選した。明治28年(1895年)10月、織原万次郎・山本誠兵衛・清原宗太郎とともに松江電灯株式会社発電所を殿町に設立。明治29年(1896年)1月には松江銀行監査役に当選、明治31年(1898年)1月同行取締役に就任した。
大正6年(1917年)4月に、第13回衆議院議員総選挙で島根県松江市から選出された岡崎運兵衛が、大正8年(1919年)12月に死去したことに伴い、大正9年(1920年)1月に行われた補欠選挙で当選して[2]衆議院議員となり、憲政会に所属して1期在任した[3][4]。