桓伊
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丹陽尹・護軍将軍・長社侯桓景の子として生まれた。軍事の才能があり、王濛や劉惔に知られて、諸府の参軍事を歴任し、大司馬参軍となった。ときに前秦の苻堅が華北を統一して強盛となっていたため、東晋の朝廷も戦場での働きに優れた者を任用しようと、桓伊を淮南郡太守に任じた。防御に功績があり、淮南郡太守のまま都督豫州之十二郡揚州之江西五郡諸軍事・建威将軍・歴陽郡太守に進んだ。太元6年(381年)、謝玄とともに前秦の将軍の王鑒や張蚝らを撃破した。功績により宣城県子に封じられ、都督豫州諸軍事・西中郎将・豫州刺史に進んだ。太元8年(383年)、苻堅が100万と号する大軍を率いて南進してくると、桓伊は謝玄や謝琰らとともに淝水で秦軍を撃破した(淝水の戦い)。永修県侯に封じられ、右軍将軍の号に進んだ。
太元9年(384年)、桓沖が死去すると、桓伊は右軍将軍のまま都督江州荊州十郡豫州四郡諸軍事・江州刺史に転じた。江州では連年不作が続いていたため、桓伊は小県を併合させ、諸郡の米の上納を免除させ、江州の州治を豫章に戻すよう上奏した。孝武帝は州治を尋陽に移させた以外は、桓伊の意見を聞き入れた。後に建康に召還されて、護軍将軍に任じられた。右軍府の部下1000人を従えたまま、護軍府に入った。
太元16年(391年)、在官のまま死去した[1]。右将軍の位を追贈され、散騎常侍の位を加えられた。諡は烈といった。
子の桓粛之が後を嗣いだ。