桓譚
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『後漢書』によると桓譚は沛国相県の出身であった。音楽を好み、古琴をよくした。博学で、五経に通じていた。古学を好み、劉歆・揚雄と議論を戦わせた。
前漢の成帝・哀帝・平帝に仕えたが、官位は郎にすぎなかった。哀帝の時代に、董賢が傅皇后に罪を着せて廃位しようとすることを予測し、傅晏(傅皇后の父)に対して廃位から逃れる手立てを説いた。董賢本人も桓譚の名を知って採用しようとしたが、桓譚の説いた政論を董賢は用いず、結局採用されなかった。
王莽の時代に人々は符命を作って王莽に媚びようとしたが、桓譚は媚びなかった。王莽の時代に掌楽大夫となり、更始帝のときに太中大夫の官についた。
宋弘は、劉向・劉歆・揚雄なみの才学がある人物として桓譚を光武帝に推薦した[2]。桓譚は議郎・給事中に取りたてられた。
桓譚は揚雄を大変尊敬していた。生前の揚雄は必ずしも高く評価されなかったが、桓譚は揚雄が聖人にも劣らないと述べている[3]。
桓譚は日頃から讖(予言書)を非難していたが、光武帝が讖を信じるのに対して、讖は経典ではなく無効であることを説いたために光武帝は怒って桓譚を斬ろうとした。桓譚は叩頭して謝り、ようやく許された。六安郡丞に左遷させられたが、任地に赴く途中で病死した。70歳あまりであった。