梁漢顒
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若くして李克用に仕えた。はじめ軍中の小校となり、騎射を得意とし、白兵戦で勇敢であった。晋王李存勗が劉仁恭や張文礼を破り、梁軍と徳勝口で対陣するにあたって、漢顒はいずれも参戦し、功績を重ねて龍武軍指揮使・検校司空にいたった。同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が後梁を平定すると、漢顒は濮州刺史・検校司徒に任じられた。同光3年(925年)、魏王李継岌が軍を統率して前蜀を討つと、漢顒は魏王中軍馬歩軍都虞候となった。天成元年(926年)、忠武軍節度留後・検校太保に任じられた。ほどなく静難軍節度使となった[1]。天成3年(928年)、右威衛上将軍に任じられた[2]。長興元年(930年)[3]、検校太傅を加えられ、威勝軍節度・鄧泌随等州観察処置等使として出向した。長興4年(933年)夏、眼病のため太子少師として致仕した。漢顒は石敬瑭と旧交があった。後晋の天福元年(936年)、高祖石敬瑭が即位すると、漢顒は左威衛上将軍に任じられた。天福7年(942年)冬、洛陽で病没した。享年は七十数歳。太子太保の位を追贈された[1]。