梨羽景宗
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梨羽 景宗(なしわ かげむね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。小早川氏、毛利氏の家臣で、萩藩(長州藩)士。父は平賀元相[1]。梨子羽景運の婿養子となって梨羽氏(梨子羽氏)を継ぐ[1]。子に萩藩の当役(家老)を務めた梨羽就云がいる[1]。晩年にはかつて仕えた小早川隆景についてを記した覚書『梨羽紹幽物語』を著す。
| 時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
|---|---|
| 生誕 | 天正5年(1577年)[1] |
| 死没 | 延宝3年閏4月8日(1675年6月1日)[1] |
| 改名 | 平賀景宗→梨羽景宗→梨羽壱岐入道紹幽[1](入道号) |
| 別名 | 通称:小次郎[1]、助右衛門尉[1] |
| 官位 | 壱岐守[1](受領名) |
| 主君 | 小早川隆景→毛利輝元→秀就 |
| 藩 | 萩藩(長州藩) |
| 氏族 | 藤原北家良房流平賀氏→桓武平氏良文流小早川氏庶流梨羽氏[1] |
| 父母 |
父:平賀元相[1] 養父:梨子羽景運[1] |
| 兄弟 | 景宗、平賀元忠 |
| 妻 |
正室:梨子羽景運の娘[1] 継室:村上八郎左衛門の娘[1] 継室:口羽通平の娘(佐世元嘉の養女)[1] |
| 子 | 女(赤川就政室)[1]、元仁[1]、勝間田就祐[1]、女(児玉就貞室)[1]、女(半井就親室)[1]、就云[1]、山内就友[1]、沓屋就定[1]、神谷就世[1]、女(口羽就行室→桂就定室)[1]、女(木原就房室)[1]、大吉[1] |
生涯
天正5年(1577年)、安芸国の国人・平賀元相の庶長子として生まれる[1][2]。景宗は長子であったが、同年に生まれた異母弟の平賀元忠が嫡男として扱われたため、系図では次男として扱われている[2]。なお、景宗の母は後に平賀氏の家臣に嫁いでおり、その後生まれた景宗の異父妹は桂対馬守に嫁いでいる[2]。
初めは小早川隆景に仕え[2]、「景」の偏諱が与えられて景宗と名乗る。また、祖父・平賀広相の弟で、梨羽氏(梨子羽氏)を継いだ梨子羽景運の婿養子となり、その後を継いだ[1][3]。
天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役では、隆景に従って朝鮮半島に渡海して各地を転戦した[4]。
慶長2年(1597年)に隆景が死去した後は、毛利輝元に仕えた[4]。
元和9年(1623年)12月10日、景宗の隠居に伴い、嫡男の梨羽元仁が家督と周防国熊毛郡野原村の648石2斗余の知行地を相続することを毛利秀就に認められた[5]。
寛文6年(1666年)頃、景宗がかつて仕えた小早川隆景の一代について質問に答えた覚書『梨羽紹幽物語』を書き残す[4]。中でも景宗が従軍した文禄の役に関する記述は、下瀬頼直が書き残した『吉見家朝鮮陣日記(下瀬日記)』と共に文禄の役における毛利軍の動向を研究する上での根本史料とされており、文禄の役における小早川軍の活動を知る唯一の貴重な史料と評価されている[4]。