尾張国丹羽郡楽田(現・愛知県犬山市楽田)出身。平九郎(宗玄)の長男。
始め丹羽郡楽田城に住したが、後、中島郡奥村に移るという[1]。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの時、中島砦を守る[2]。
永禄11年(1568年)10月2日、織田信長が池田勝正の居城・摂津国池田城を攻めた時、戦死した。『信長公記』によると、高秀は名の知れた勇士であり、池田城攻めの際に信長の馬廻りで有名な武勇の者であった魚住隼人、山田半兵衛の2名と先を争って城の外郭に突入した。しかし、高秀は敵に腰骨をつかれ、討ち死にした。また、魚住隼人も負傷して退いたという[3]
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信長上洛直後の摂津池田城攻めの時、「水野金吾内」の「梶川平左衛門」が奮戦して討死した旨、「公記」に記載されている。「水野金吾」とは、25年も以前に没した水野忠政であり、かつて忠政に属していたという意味であろう。高秀の弟・秀盛が水野信元に属していたことは「張州雑志抄」などに記されているから、高秀も忠政からその子信元に属したと考えられる。