森好男
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名門・天王寺中学(現・大阪府立天王寺高等学校)時代は、ラグビーと水泳の両方で活躍した。早くから浜寺水練学校の中核的存在として知られており、インターミドルでも傑出した泳力を誇示していた。
1926年(大正15年)春に早稲田大学に入学 。どの道へ進むか迷った時期もあったが、高石勝男の懇望もあって水泳部に入部した。同年の日本学生選手権水泳競技大会において、100m自由形および200m自由形で2位となり、800mリレー(森好男・木村象雷・石毛政信・高石勝男)では優勝を果たした。また、同年の日本選手権水泳競技大会でも100m自由形で3位に入賞している[1]。1927年(昭和2年)7月、玉川プールで開催された第3回日本選手権水泳競技大会の100m自由形に出場し、1分06秒4の記録で優勝し日本選手権者となった[2]。同年の日本学生選手権でも100m自由形で3位に入ったほか、200mリレーおよび800mリレーで優勝に貢献している[3] [4]。極東選手権競技大会やオリンピックで水泳熱が高まっていた時代であり、国際舞台での飛躍を期していたが、1928年(昭和3年)のアムステルダムオリンピック予選で惜しくも代表の座を逃した。
その後は不運なレースが続いた反動からか、冬季は好きなラグビーに熱を入れ、水泳部のみならず当時クラブの雄であった建築科のラグビーチームを引っ張る活躍を見せた。大学卒業後は、西本竜三や高石勝男の知遇を得たが、事情により何度か職場を替わる結果となり、客観的には不遇な時期を過ごした。しかし終生にわたって水泳への情熱を燃やし続けた。
戦後の混迷期には、中馬馨(ちゅうま かおる)大阪市助役(のちの大阪市長)の深い理解に支えられ、「世界一」と称された大阪プールの設計に携わり、偉大な足跡を残した。さらに、目の不自由を克服して天理大学の指導者としても充分に職責を全うした。晩年は2、3年ほど床に伏した後、5月20日に心筋梗塞のため66歳で死去した。
主な成績
- 1926年(大正15年)
- 第2回日本選手権水泳競技大会:100m自由形 3位[1]
- 第5回日本学生選手権水泳競技大会:100m自由形 2位[3] / 200m自由形 2位[3] / 800mリレー 優勝[4]
- 1927年(昭和2年)
- 第3回日本選手権水泳競技大会:100m自由形 優勝(1分06秒4)[2] / 800mリレー 優勝[1]
- 第6回日本学生選手権水泳競技大会:100m自由形 3位[3] / 200mリレー 優勝(日本新記録)[3] / 800mリレー 優勝[4]
- 1928年(昭和3年)
- 第7回日本学生選手権水泳競技大会:200mリレー 優勝[3]