森川卓郎
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広島商業高校では、エースとして1959年春季中国大会で準々決勝に進むが、倉敷工に惜敗。同大会の県予選決勝では三浦和美らのいた広陵高をノーヒットノーランに抑えている。同年夏も県予選で敗れ甲子園には届かなかった。高校同期に松村正晴がいる。
卒業後は神奈川大学に進学。大学では主戦投手として活躍し、横浜五大学野球リーグで4回優勝。全日本大学野球選手権大会には3回出場し、1963年には準決勝に進出するが慶大に敗れた。4年春にリーグ最優秀選手。
1964年に地元チームでもある広島カープへ入団、5月から先発陣の一角として起用される。5月5日の巨人戦は王シフトが敷かれた試合として有名であるが、その試合で先発を任されたのが森川である(結果は3回途中で降板)[2]。5月17日には巨人を相手に先発し初勝利。6月9日には大洋の高橋重行と投げ合い、9回サヨナラ完封勝利を記録するなど約3週間で3勝を挙げる活躍をみせ、安仁屋宗八、西川克弘とともに「新鋭三羽ガラス」として注目される[3]。しかし2年目以降は左肩を痛めたことにより登板機会が減り、1967年限りで退団した[2]。武器はカーブとシュート、シンカー。
引退後は、広島市南区にある鋼材関連の企業(興永鋼材)で、取締役会長を務めていた[1]。