大和国高市郡鳥屋村の生まれ。17歳で江戸に出て佐竹家に仕えたが、しばらくのちに浪華に移る。常日頃から古法帖の臨模を精励し、書名がすこぶる高まった。また傍らで篆刻も嗜み、画も巧みでとりわけ墨竹図に優れていた。文化4年(1804年)には浦上玉堂が竹窓の家に逗留している。また書画骨董の収蔵にも富み、松平定信が『集古十種』を編纂したとき竹窓も協力を要請された。備後町壱丁目、高麗橋丼池に私塾を開き、書を教えた。上田秋成と親交が深い。
京都に没する。享年68。墓所は木村巽斎と同じ大応寺(大阪市天王寺区餌差町)にある。