もともと久宝寺村内で生まれ、当地の有力者だったが、当時の久宝寺寺内町は、織田信長に忠誠を示していた安井氏が久宝寺御坊顕証寺から町内の支配を任されており、町内の有力農民らは、かねてから安井氏の支配方針に反発していた[2]。安井氏の町内の支配は 織豊政権→徳川政権に代わっても続いていた。
慶長年間(1596年~1614年)に本願寺が東西に分裂すると、顕証寺は西本願寺に属したが、同じく久宝寺寺内町にあった慈願寺は東本願寺に属した。
慶長11年(1606年)11月に、七郎兵衛ら有力農民は奉行衆へ安井氏の行為が正当でないと訴え出た[1][2]。
しかし、安井氏はこの訴えに対して徳川家康に反訴し、結果、七郎兵衛らの訴えは却下される[2]。訴えに関与した七郎兵衛ら17人衆および彼らに与した慈願寺は久宝寺を退去させられることとなったが、徳川家康は東本願寺派の教如に八尾庄の四町四方の地を与え、17人衆および慈願寺は慶長11年(1606年)にこの地に移住・荒れ地を開墾して八尾御坊大信寺を中心とした寺内町・在郷町の整備を主導した。