森蘭斎
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新井宿の旅籠屋に生まれ[1]、はじめ同郷の画家五十嵐浚明から画を学んだ[2]。23歳のとき長崎に出て医学を修める傍ら、沈南蘋の直弟子熊斐に就いて画法を受ける[3]。熊斐の娘婿となり一番弟子と自称[4][5]。
安永元年(1772年)に熊斐が没すると、大坂に出て医を生業としながら画を通じて伊藤東所・片山北海・中井竹山ら著名な文人と交友した[6][7]。『蘭斎画譜』では熊斐から受けた画法の伝授課程を伝え熊斐の小伝を掲載している[8]。
寛政年間に江戸に移住[9]。儒官林述斎や宇都宮藩藩主戸田忠翰らと交友。とりわけ戸田忠翰とは画の共作を行うほど親しく交わった。加賀藩御用絵師となり、日本橋稲荷新道に一戸を構え、大勢の門人がいたと言われる[10]。門人・弟子として、大阪に金谷三石、越前の岸駒、上毛の町田玉𡢃(町田麗花)、比角村の山田文川(どやの文川)、秩父の新井群玉などが自称、他称含め知られる[11][12][13][14][15]。
享年72。墓は、当初浅草本願寺中妙清寺に建てられたが、関東大震災で壊壊れた。直系の子孫は既に絶えており無縁仏に成りかねない所だったが、新井の人々の募金によって、昭和5年(1930年)に移転され東本願寺新井別院(妙高市)に改葬された[16]。息子の蘭園森文良も、医師であると共に父の画風を受け継いだ絵師だったが、数え37歳で早世したため現存作品数は極めて少ない[17]。
蘭斎は絵師としては珍しく筆マメであり、いくつか残る書簡ではどれも長文をしたためている。しかし、作品に年期を記すことは極めて稀で、画風の変遷をたどるのは殆ど不可能である。
著作
- 『蘭斎画譜』天明2年(1782年)
- 『蘭斎画譜続編』享和元年(1801年)
