森重昭

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森重昭とバラク・オバマ

森 重昭(もり しげあき、英語: Shigeaki Mori1937年昭和12年〉3月29日 - 2026年令和8年〉3月14日)は、日本歴史研究家である。日本本土空襲などで命を落とした連合国捕虜に関する研究で知られる。

戦後の研究

広島県広島市(現・広島市西区)に生まれる[1][2]。中国憲兵隊司令部近くの済美学校幼稚園に入学する[1]国民学校基町の広島陸軍偕行社付属済美国民学校)3年時に集団疎開に行かず広島市己斐の己斐国民学校(現・広島市立己斐小学校)に転校[1][2][3]1945年(昭和20年)8月6日の広島市への原子爆弾投下の瞬間、爆心地から西へ約2.5キロメートル地点の、自宅付近の旭山神社の前の橋の上を歩いていたときに被曝する。彼の体は河川へと投げ出されたが、奇跡的に無傷で生き長らえた[1][4][5][6]

広島市中区基町にある原爆犠牲米軍人慰霊銘板。森が自費で作成した。

中央大学経済学部を卒業後は山一證券へ入社する[4][5]。1960年代の山一の経営危機をきっかけとして日本楽器(現・ヤマハ)に転職して音楽文化事業に携わり、クラシックの楽曲解説なども務めた[1][4]。1970年代からは勤務の傍ら、日曜日や祝日に被爆調査を開始する[1][4]。その一環として広島で被爆死した米兵捕虜について知る[1][4]

以降は30年以上にわたり、爆心地から東へ約600メートル離れた中国憲兵隊司令部[7]で死去したアメリカ合衆国パイロットの捕虜に関する研究を行ってきた[6]。この研究をもとに、彼は2008年平成20年)に『原爆で死んだ米兵秘史』を著した[8]。これは後のバラク・オバマの広島訪問にも繋がったとされる[4]

また森は、呉軍港空襲(1945年7月28日)の際に撃墜され、その後広島で原爆により死亡したB-24「タロア」号乗員の遺族を捜し出そうとしてきた。「タロア」号の機体の一部は、当時の地元農民が憲兵隊を恐れて密かに保管していたもので、2008年にその存在が明らかになり、森に託された。森はこれを遺族・関係者に返すため、小さく切り分けて米国へ送った[9]

2016年平成28年)5月27日、バラク・オバマの広島訪問において米国から招待されてオバマと面会した際には、彼と抱擁を交わした[10][11][12] 。同年に第64回菊池寛賞を受賞[13]2024年(令和6年)11月には谷本清平和賞を受賞した[14][15]。2026年3月14日、心臓停止のため広島市南区広島大学病院で死去した。88歳没[2][16][17]

著書

脚注

関連項目

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