楊彦詢
From Wikipedia, the free encyclopedia
楊規の子として生まれた。13歳で淄青節度使の王師範に仕えた。1万巻の蔵書を管掌した。成長すると、青州の兵の監督を任された。天復3年(903年)、朱全忠の将の楊師厚が青州を降すと、彦詢は王師範に従って朱全忠に帰順した。後梁の開平2年(908年)、王師範が殺害されると、楊師厚が魏州を領知していたことから、彦詢は麾下に招かれて、賓客の事務を管掌した。天祐12年(915年)、晋王李存勗が魏博に入ると、彦詢は李存勗に仕えた[3][2]。
同光元年(923年)冬、後唐の荘宗(李存勗)が開封府を平定すると、彦詢は引進副使に昇進し、前蜀と呉に荘宗の意を伝えるよう命じられた。宮中の職を歴任した。明宗のとき、彦詢は客省使・検校司徒となった。呉越への使節をつとめて帰国すると、徳州刺史に任じられた。清泰元年(934年)、末帝が即位すると、彦詢は左羽林軍将軍に転じた。ときに石敬瑭が太原府に駐屯していたが、朝廷はかれを疑って、彦詢を北都副留守として監視させた。清泰3年(936年)、宋審虔が北都留守とされると、石敬瑭は交代を受け入れなかった。彦詢は石敬瑭を諫めたが、石敬瑭の挙兵の意志が固いとみると、それ以上発言しなかった[4][5]。
天福元年(同年)、後晋の高祖(石敬瑭)が即位すると、彦詢は斉州防禦使・検校太保に任じられた。まもなく宣徽使に転じた。高祖に従って洛陽に入り、左驍衛上将軍を加えられた。天福2年(937年)秋、威勝軍節度使として出向した。天福3年(938年)、入朝して宣徽使となった。天福4年(939年)、契丹への使節をつとめた。天福6年(941年)春、安国軍節度使・検校太傅に任じられた。ときに成徳軍節度使の安重栄は高祖が契丹に屈服しているのが不満で、契丹の使節を辱めて殺害した。高祖はこの事件により契丹を怒らせることを憂慮して、再び彦詢に命じて契丹への使者をつとめさせた。彦詢は安重栄の妨害を避けるため、滄州を経由して契丹に入った。契丹の耶律堯骨はやはり安重栄の事件に激怒しており、彦詢は事件が高祖の本意でないことを弁明した。彦詢は契丹に抑留されていたが、ほどなく安重栄が反乱を起こしたことが聞こえてくると、放免されて帰国した。天福7年(942年)春、華州節度使・検校太尉に任じられた。華州で蝗害と旱魃が起こると、彦詢は官粟を貸し与えて、このため生きながらえた州民は多かった。開運元年(944年)、中風を病み、右金吾衛上将軍に任じられた[4][6]。開運2年(945年)10月、在官のまま死去した[7]。享年は74。太子太師の位を追贈された[8][6]。