楊瑒

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楊 瑒(よう とう、668年 - 735年)は、唐代官僚は瑶光。本貫華州華陰県[1]

はじめ麟遊県令となった。御史大夫竇懐貞が金仙観と玉真観の造営を検校すると、民衆が隠匿している資材を徴収するよう近県に文書を通知した。楊瑒は拒んで受けなかった。竇懐貞が怒って「官位の低い県令がなぜ大夫の命を拒むのか」と責めると、楊瑒は「不当な扱いを論じているところで、官位の高低は関係ない」と答えた。また中宗のとき、韋皇后が従来21歳からとされていた正丁を、22歳からとするよう上表した。韋皇后が敗死すると、尚書省は免除されていた租調を徴収しようとした。楊瑒はこれに反対して徴収を止めさせた。楊瑒はこのため名を知られるようになり、殿中侍御史に抜擢された[2][3]

開元初年、楊瑒は侍御史となった。ときに崔日知京兆尹となり、貪婪暴虐で法を犯していた。楊瑒は御史大夫の李傑とともに崔日知を弾劾しようとした。李傑がかえって崔日知に陥れられたため、楊瑒は「糾弾の官吏が脅迫に遭い、悪人の謀が成ってしまうようであれば、御史台は廃止してしまうべきです」と上奏した。玄宗はその直言を聞き入れて、李傑を御史大夫の事務にもどし、崔日知を歙県県丞に左遷した。楊瑒は御史中丞戸部侍郎を歴任した。玄宗が延英殿に諸官を召し出して戸口のことを議論させると、楊瑒は民間の利害を上奏して、称賛を受けた。御史中丞の宇文融が括戸政策を提案すると、公卿以下の官の多くは宇文融の意見に賛同したが、楊瑒はひとりこれに反対した。ほどなく華州刺史として出向した[4][3]

開元16年(728年)、楊瑒は国子監祭酒に転じた。上表して王迥質・尹子路・白履忠らを推薦した。また『周礼』・『儀礼』・『春秋公羊伝』・『春秋穀梁伝』に通じている者を優遇して奨励するよう上奏した。大理寺卿に転じ、老病のため辞職した。開元23年(735年)、左散騎常侍に任じられた。ほどなく死去した。享年は68。戸部尚書の位を追贈された。は貞といった[5][6]

家族

  • 高祖父:楊縉(の中書舎人)
  • 曾祖父:楊林甫(字は衛卿、絳州刺史、宜春郡公)
  • 祖父:楊琮(字は孝璋、沔綏二州刺史)[2][7]
  • 伯父:楊志操(宗正寺卿、安平県男)[8]

脚注

伝記資料

参考文献

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