竇懐貞

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竇 懐貞(とう かいてい、生年不詳 - 713年)は、唐代官僚政治家は従一[1]本貫扶風郡平陵県

聖暦2年(699年)、清河県令となり、統治に有能で知られた。まもなく越州都督揚州大都督府長史を歴任し、任地ではいずれも清廉で手腕に優れていた[2][1]

神龍2年(706年)、御史大夫に累進し、検校雍州長史を兼ねた。ときに韋皇后安楽公主らが朝政に関与していたが、懐貞は韋皇后の父の韋玄貞の諱を避けるため、字の従一をもって称した。韋皇后の乳母の王氏が莒国夫人に封じられると、従一は後妻として迎えた。俗に乳母の夫が阿㸙と呼ばれていたことから、従一は謁見や上表のさいに必ず「皇后阿㸙」と称し、あるいは当時の人は「国㸙」と呼んだ。従一はこのような呼称を恥じることなく、韋皇后や安楽公主にへつらった。監察御史の魏伝弓が内常侍の輔信義を弾劾すると、従一は輔信義が安楽公主に信任されていることを理由にしりぞけた[2][1]

景龍4年(710年)6月、韋皇后が臨淄王李隆基の起兵により敗死すると、従一は濠州司馬に左遷された。ほどなく益州大都督府長史に任じられ、懐貞の名にもどした。景雲2年(711年)、懐貞は殿中監として召還された[3][1]。5月、左御史大夫・同中書門下平章事(宰相)となり[4][5]、中山県公に封じられた[1]。9月、侍中に任じられ、左御史大夫を兼ねた[6]。10月、宰相を退任した[7]

睿宗が金仙公主と玉真公主のために金仙観と玉真観の建立を計画すると、当時の朝廷は反対論が多数であったが、ひとり懐貞は建立に賛成し、自ら監役に志願した。族弟の竇維鍌(竇誕の子の竇孝果の子)が諫めたが、懐貞は聞き入れなかった。また太平公主に仕えること、あたかもその属官のようであった[8][1]

太極元年(712年)1月、同中書門下三品となり[6][9]、太子詹事を兼ね、監修国史をつとめた。延和元年(同年)7月、尚書右僕射となり、御史大夫を兼ねた。先天元年(同年)8月、玄宗(李隆基)が即位すると、尚書左僕射となり[10][11]、魏国公の爵位を受けた[12]

先天2年(713年)7月3日[13][14]、太平公主が玄宗(李隆基)の廃位を企んで事が漏れると、懐貞は罪にかかるのを恐れて、投水して自死した。その遺体を辱められ、毒氏と改姓された[8][12]

家族

  • 高祖父:竇毅
  • 曾祖父:竇照(北周の開府儀同三司・河渭成三州刺史・鉅鹿郡公)
  • 祖父:竇彦(隋の工部侍郎・西平郡太守・鉅鹿郡公)
  • 伯父:竇徳明
  • 父:竇徳玄(検校左相)
  • 兄:竇懐譲(密州刺史)
  • 兄:竇懐道
  • 兄:竇懐亮(懐州刺史)
  • 兄:竇懐恪(秦州都督)

脚注

伝記資料

参考文献

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