楊衮
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概要
楊衮、字は弘信。晩唐の節義を重んじた名臣・魏州総管銀槍大将軍楊世厚の一人息子である。幼い頃から大志を抱き、金槍の祖・夏魯奇の門下に入り、山東北覇六合槍の真伝を学んだ。師の命を受け宝鶏山狗家疃に赴き、大梁の横勇無敵鉄槍王・王彦章を槍一閃で討ち取り、一躍名を轟かせた。しかし輔佐すべき明君に恵まれず、故郷の河西麟州府楊家堡に隠棲。その後各地の名師を訪ねて槍法を研鑽し、古来伝わる六種の名槍の精髄を融合させ、「六合梅花三十六槍」――後の世に「楊家槍法」として知られる独自の槍術を編み出した。[1]
北国の軍兵が悪行を重ね民を苦しめるのを見かね、50歳に迫って再び世に出る。金輪火尖槍を手に、山後一十六ヶ所の山寨に拠る緑林の豪傑をことごとく降伏させ、山後池州府火塘山に本拠を構え「火山王」を名乗った。楊滾は自ら率いる火山軍を率いて太原城下に至り、楊家槍法を駆使して北国の将軍十七名を続けざまに討ち取り、連環の計で遼王を火攻めに破る。最後には耶律徳光が滦城へ敗走し、陣中で憤死した。以来、楊衮の金槍が山後を鎮めるかぎり、契丹は二度と中原に侵攻しなかった。これぞ「胡虜掠奪に駆けるも、英雄世に出でて金槍以て契丹を伏せ、四海に再び慈雨を施す」という故事である。[2]
惜しむらくは、楊衮は天下統一の大志を抱きながらも明君に巡り合えなかった。後に漢主劉知遠が中原を統一し、詔を捧げて入京を促し王位を授けようとしたが、楊衮は傲然として受けず、依然として火塘寨に兵を擁し自立を保った。その後、趙匡胤が帥として河東征伐に向かい、太原府手前の金鎖関まで攻め寄せた際、北漢王は万策尽きて火山王楊衮に出陣を要請。楊衮は趙匡胤と戦場で相見え、獅子崖辺りで老少二人の英雄が天下を論じる中、楊衮は趙匡胤に天命を受けた統主の気宇を見て取り、戦場で銅鎚と趙匡胤の玉帯を交換し、「今後楊門の子孫は代々趙氏の江山を輔佐する」という誓約を結んだ。[3]
史実モデル
楊衮の史実上のモデルは楊弘信であり、後に宋の太祖の祖父・趙弘殷の諱を避けるため楊信と改名した。本貫は河西麟州で、五代後漢の時代に麟州刺史を務めた。中国の歴史演義や講談などにおける「楊衮」という人物像は、史実上実在した契丹の将軍・楊衮(別名:耶律敵魯)に端を発している。この将軍は北漢を支援して後周の柴栄と高平で激戦を繰り広げ、負傷した。この事績は『残唐五代史演義』に取り上げられた後、民間の講談作者たちによって誤って楊業の父として組み込まれ、高平の戦いは「趙太祖の河東征伐」へと変容し、後に「銅鎚と玉帯の交換」という筋書きが形成されるに至った。戯曲の台本から見ると、楊衮というキャラクターは遅くとも明代中期には説唱文学や戯曲の演目に登場している。[4]
楊衮の槍法
楊衮は諸国を遍歴して集めた六種の古伝名槍——後漢の姚期に伝わる覇王槍、三国の張飛が創した桓侯槍、唐代の敬徳が用いた鼉龍槍からなる三猛槍法と、蜀漢の趙雲が創した子龍槍、隋唐の羅成が使った梅花槍、盛唐の名将郭子儀の汾陽槍からなる三巧槍法——の精髄を、北覇六合槍と家伝の楊家梅花槍法の要訣と融合させて独自の一派を打ち立てた。楊滾は六種の名槍から煩雑な部分を除き、それぞれを二路六手の槍法にまで簡略化し、一種につき二路ずつ、合わせて十二路三十六手の楊家槍法とした(十二手絶命槍、六合梅花三十六槍)。[5]
楊衮の武器「金輪火尖槍」は、先端に小孔が開いており、それが槍の内部まで貫通している。内部には仕掛けが組み込まれており、発火装置のバネは槍の末端部に設置されている。末端を回転させると、槍頭下部の車輪が回転し、歯車が噛み合うことで発火し、槍先から火球を噴射する。この火球が標的に当たると燃え上がるため、「金輪火尖槍」と名付けられた。この火炎放射の機能以外にも、金輪には多様な使い方が存在する。絡める・払う・支える・滑らせる・受け止める・導く・挟む・打ち付ける……といった応用が可能で、あらゆる兵器に対応でき、特に槍を破る技法においては無限の奥義を秘めている。[6]