夏魯奇

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夏 魯奇(か ろき、883年 - 931年)は、五代十国時代軍人は邦傑。本貫青州[1][2]

はじめ宣武軍に仕えて軍校となった。主将と合わず、晋王李存勗に帰順し、護衛指揮使となった。天祐9年(912年)、周徳威に従って幽州を攻め、の将の単廷珪元行欽と戦った。天祐12年(915年)、後梁の将の劉鄩が洹水にあり、李存勗が軍を深入りさせていたところ、劉鄩は魏県の南西の葭蘆の中に伏兵を設けた。李存勗は1000騎足らずで、梁軍の伏兵1万あまりに包囲され、危地に陥った。魯奇は王門関や烏徳児らとともに昼から夕刻まで奮戦し、李存審の援軍がやってくると包囲を脱した。磁州刺史に任じられた[3][2]

同光元年(923年)、中都の戦いにおいて、後唐の荘宗(李存勗)が梁軍を破ると、魯奇は王彦章を単騎で追いかけて捕らえた。後唐が後梁を滅ぼすと、魯奇は鄭州防禦使に任じられた。同光4年(926年)、河陽節度使となった[4][2]

天成元年(同年)、許州に移鎮し、同平章事を加えられた。許州に転任するにあたり、孟州の民衆が道を遮ったため、出立できなかった。孟州の父老が宮殿を訪れて魯奇の留任を請願し、明宗宦官の使者を送って人々を説得したため、ようやく魯奇は孟州を離れることができた。天成2年(927年)、明宗が荊南を討つと、魯奇は招討副使となった。しばらくして遂州に移鎮した。長興元年(930年)、剣南東川節度使の董璋が反乱を起こし、剣南西川節度使の孟知祥とともに遂州を攻めると、魯奇は孤立し、食糧も尽きた。長興2年(931年)1月11日、孟知祥の将の李仁罕に遂州を攻め落とされ、魯奇は自ら首を斬って死去した。享年は49。太師の位を追贈され、斉国公に追封された[4][5]

脚注

伝記資料

参考文献

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