若い頃からの侠客で、仇討ちの代行を請け負っていたため、当時の人からは「東の市で斬りあう楊阿若、西の市で斬りあう楊阿若」と言われていた。
206年~210年頃[2]、酒泉太守の徐揖が郡内の豪族の黄氏一族を誅すると、それを逃れた黄昂は家財を投げうって千人ほどを集め、徐揖に攻め入った。
当時、楊豊は郡外にいたが黄昂の行いを不義と感じ、徐揖に告げて(妻・子を置いて)東の張掖郡に救援を求めた。しかし、そこでも太守を殺害される反乱があり、徐揖もまた黄昂に殺害され、酒泉郡・張掖郡は反乱勢力として手を組んだ。黄昂は楊豊の態度を不服として懸賞金をかけ、張掖に生け捕りにするよう触れを出した。
(張掖郡より東方の)武威太守の張猛は追手から逃れた楊豊を仮の都尉に任じ、また彼が黄昂に報復することを許可する旨を酒泉郡に布告した。そこで楊豊は単身で南羌の地に入り、一千騎ほどを得ると、酒泉郡楽涫県の南山から出て郡治の禄福県に迫った。禄福県まで三十里ほどになると皆に下馬させて、柴を引かせて土煙を挙げさせると、それを見た酒泉郡の人々は東から大軍が来たと驚き、逃げ去っていった。黄昂も単身逃亡したが、羌族に捕らえられて楊豊の前に引き出された。楊豊は「卿は以前、私を生け捕りにしようとしたが、今は逆になった。どう思うか?」と尋ね、黄昂は謝罪したが、これを処断した。
当時、東にいた同族の黄華が郡に戻り勢力を取り戻すと、楊豊はこれを恐れて西の敦煌郡に逃亡した。黄初年間(220年頃)、河西が復興し反乱した黄華も降伏すると[3]、酒泉郡に戻ってくることができた。酒泉郡は楊豊を孝廉に挙げ、涼州はその義勇を上表したため魏から詔が下り、駙馬都尉に任じられた。楊豊はその二十数年後に病没した。