楠葉西忍
室町時代の商人。父はヒジリ(天竺人)。母は河内楠葉の娘。妻は立野戌亥(大和の武将、子に実弾房宗信(大乗院の坊主))の娘。子に元次(長男)、他二男二女
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出自と名
幼名はムスル、俗名(通称)は天次で、西忍は出家した後の号である。もとは「天竺」を姓とした。
父は天竺人の商人「ヒジリ」(この天竺がどこを指すかは不明。インド、ジャワもしくはアラビアの可能性もあり)で、足利義満の時代に来日し、京都の相国寺に居住して絶海中津の庇護を受けていた。やがて河内の楠葉(現大阪府枚方市楠葉付近)の娘を妻とし、西忍が生まれた。のち西忍が楠葉を姓としたのは母の出身地による。ヒジリははじめ京都の三条坊門烏丸に居住し「有徳の者」と称されたが、将軍足利義持の勘気を受けて処罰される。
酒井紀美によれば、ヒジリは上意にそむいたという理由で罰せられ、一色氏へ預け置かれたまま身動きが取れず、そこで生涯を終えた。酒井は、応永18年(1411年)に義持が明の使者を京都に入れず兵庫から追い返して両国の関係を断ったことを引き、海外に広く縁を持って京都で商いを広げるヒジリは義持にとって目障りだったのだろうと推し量る[1]。父の死後に家族は赦免されて自由の身となり、ヒジリの跡は西忍の弟にあたる民部卿入道が継いだ[1]。
大和へ
渡明
大和での居所
尋尊との関わり
尋尊は西忍の死を書きとめた条で、交際の長さにも触れている。嘉吉元年(1441年)10月に初めて会ってから46年になること、その間に西忍が唐(明)にいた期間が1年あったことを記す[3]。西忍は大乗院を訪れては見聞を語る立場にあり、尋尊の日記にはその内容がしばしば書き留められた。
貿易についての報告
文明年間、尋尊は西忍から渡明船の費用の内訳を聞き取っている。西忍は宝徳度の船について「入目日記」を持参し、船の借用のために安芸国高崎へ下向したこと、粮物300貫・船賃300貫・船の作事400貫といった費目を挙げた[3]。この記事は学侶の集会でも議題に上っている[3]。船ごとの請負先も語っている。永享3年(1431年)の派遣では、一号船を室町殿(将軍家)、二号船を相国寺、三号船を山名氏が請けたという[4]。
古市についての報告
語ったのは貿易のことだけではない。文明年間、古市氏の軍勢について尋ねられた西忍は、古市・山村・藤原・長井・鹿野園の分で甲六百余、郡山・今市・引田以下を合わせると千余の甲になると答えている[5]。古市の山が夜ごと鳴動するので松明をともして見に行ったという話も、西忍が尋尊に伝えたものである[5]。
書きとめられた晩年
文明6年(1474年)10月、尋尊は息子の元次から、先月21日以来西忍が床に就いて「存命不定」であると告げられる。ところが80歳の西忍は持ち直し、翌年の百首和歌と連歌の一座には元気な姿を見せた。これ以後、年始の参賀で西忍が顔を出すたびに、尋尊は日記へその齢を書き添えるようになり、記事は文明12年の86歳から17年の91歳まで続く。90歳で年賀に現れた文明16年正月には「希有、不思議の老者なり」と書きつけている[6]。
語られなかった天竺の話
文明15年(1483年)2月8日、尋尊は「西忍来たりて、天竺の物語りす、親公の相語る分と云々」と日記に記した。ところが記事はそこで途切れ、話の中身は一行も残されていない[6]。酒井は、唐船や唐土での交易とその利益についてはあれほど繰り返し書きとめた尋尊が、天竺の話にはまるで関心を示さなかったとみて、ここに内容が書き留められていれば西忍の父の故郷がインドかアラビアか、あるいは東南アジアかを知る手がかりになったはずだと惜しんでいる[6]。
死去
史料
西忍の交易活動は、帰国後に興福寺へ報告され、大乗院主尋尊によって『大乗院寺社雑事記』『唐船日記』などに詳細に記された。当時の日明勘合貿易の実際を知るうえでの貴重な史料となっている。