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楠葉西忍

室町時代の商人。父はヒジリ(天竺人)。母は河内楠葉の娘。妻は立野戌亥(大和の武将、子に実弾房宗信(大乗院の坊主))の娘。子に元次(長男)、他二男二女 From Wikipedia, the free encyclopedia

楠葉 西忍(くすば さいにん、応永2年〈1395年〉 - 文明18年2月13日〈1486年3月18日〉)は、室町時代の商人。天竺人を父にもち、興福寺大乗院に仕えて二度明へ渡り、勘合貿易に携わった。晩年は大和古市に住んだ。大乗院門跡尋尊は、西忍から聞き取った話を『大乗院寺社雑事記』のあちこちに書き残している。

出自と名

幼名はムスル、俗名(通称)は天次で、西忍は出家した後の号である。もとは「天竺」を姓とした。

父は天竺人の商人「ヒジリ」(この天竺がどこを指すかは不明。インド、ジャワもしくはアラビアの可能性もあり)で、足利義満の時代に来日し、京都の相国寺に居住して絶海中津の庇護を受けていた。やがて河内の楠葉(現大阪府枚方市楠葉付近)の娘を妻とし、西忍が生まれた。のち西忍が楠葉を姓としたのは母の出身地による。ヒジリははじめ京都の三条坊門烏丸に居住し「有徳の者」と称されたが、将軍足利義持の勘気を受けて処罰される。

酒井紀美によれば、ヒジリは上意にそむいたという理由で罰せられ、一色氏へ預け置かれたまま身動きが取れず、そこで生涯を終えた。酒井は、応永18年(1411年)に義持が明の使者を京都に入れず兵庫から追い返して両国の関係を断ったことを引き、海外に広く縁を持って京都で商いを広げるヒジリは義持にとって目障りだったのだろうと推し量る[1]。父の死後に家族は赦免されて自由の身となり、ヒジリの跡は西忍の弟にあたる民部卿入道が継いだ[1]。

大和へ

西忍はのちに大和立野に移り住み、興福寺大乗院に奉仕する。父の死後、大和の武将立野戌亥の娘(大乗院の坊主・実弾房宗信の妹)を娶った。

京を離れた西忍がたどった道筋を、酒井は奈良・曲川・立野の順に整理する。永享年間(1429年〜1441年)はもっぱら立野に腰を据え、曲川と立野には自分の田地も構えた。立野を本拠とする在地の武士 立野氏は大乗院家に属する坊人であり、西忍の妻はその立野氏の女子であった[1]。永享元年(1429年)に長男の元次が誕生し、その他にも二男二女を得る。

渡明

永享4年(1432年)、はじめて遣明船にて明国へ渡航した。享徳2年(1453年)の二度目の渡明では、興福寺末寺の多武峰寺・長谷寺共同の船の外官となり、息子元次を同行させた。南京を経て首都北平(北京)まで赴き、直接貿易に関わって、銅と生糸・明銭などの交易に携わった。

大和での居所

住まいは一か所にとどまらなかった。『大乗院寺社雑事記』は、西忍が古市に移った日の記事で「天竺人の子 楠葉入道、昨日より古市に住宅。この間は立野庄に住みおわんぬ。本来は北京の者なり。また去る嘉吉のころは南都押上に住みおわんぬ」と、それまでの居所をまとめて記す[2]。ここでいう「北京」は南都(奈良)に対する京都を指し、父ヒジリが京都に住んだという伝えと符合する。奈良の押上、生駒郡の立野、そして古市と移り、最期は古市で迎えた[3]。

尋尊との関わり

尋尊は西忍の死を書きとめた条で、交際の長さにも触れている。嘉吉元年(1441年)10月に初めて会ってから46年になること、その間に西忍が唐(明)にいた期間が1年あったことを記す[3]。西忍は大乗院を訪れては見聞を語る立場にあり、尋尊の日記にはその内容がしばしば書き留められた。

貿易についての報告

文明年間、尋尊は西忍から渡明船の費用の内訳を聞き取っている。西忍は宝徳度の船について「入目日記」を持参し、船の借用のために安芸国高崎へ下向したこと、粮物300貫・船賃300貫・船の作事400貫といった費目を挙げた[3]。この記事は学侶の集会でも議題に上っている[3]。船ごとの請負先も語っている。永享3年(1431年)の派遣では、一号船を室町殿(将軍家)、二号船を相国寺、三号船を山名氏が請けたという[4]。

古市についての報告

語ったのは貿易のことだけではない。文明年間、古市氏の軍勢について尋ねられた西忍は、古市・山村・藤原・長井・鹿野園の分で甲六百余、郡山・今市・引田以下を合わせると千余の甲になると答えている[5]。古市の山が夜ごと鳴動するので松明をともして見に行ったという話も、西忍が尋尊に伝えたものである[5]。

書きとめられた晩年

文明6年(1474年)10月、尋尊は息子の元次から、先月21日以来西忍が床に就いて「存命不定」であると告げられる。ところが80歳の西忍は持ち直し、翌年の百首和歌と連歌の一座には元気な姿を見せた。これ以後、年始の参賀で西忍が顔を出すたびに、尋尊は日記へその齢を書き添えるようになり、記事は文明12年の86歳から17年の91歳まで続く。90歳で年賀に現れた文明16年正月には「希有、不思議の老者なり」と書きつけている[6]。

語られなかった天竺の話

文明15年(1483年)2月8日、尋尊は「西忍来たりて、天竺の物語りす、親公の相語る分と云々」と日記に記した。ところが記事はそこで途切れ、話の中身は一行も残されていない[6]。酒井は、唐船や唐土での交易とその利益についてはあれほど繰り返し書きとめた尋尊が、天竺の話にはまるで関心を示さなかったとみて、ここに内容が書き留められていれば西忍の父の故郷がインドかアラビアか、あるいは東南アジアかを知る手がかりになったはずだと惜しんでいる[6]。

死去

文明18年(1486年)、寓居していた古市で死去した。享年92。ただし『大乗院寺社雑事記』は入滅の記事で年齢を「九十三」と記しており、1歳の差がある[3]。尋尊はその死に「不便々々」と書き添えた[3]。なお没日を、酒井紀美は2月4日とする[6]。

史料

西忍の交易活動は、帰国後に興福寺へ報告され、大乗院主尋尊によって『大乗院寺社雑事記』『唐船日記』などに詳細に記された。当時の日明勘合貿易の実際を知るうえでの貴重な史料となっている。

脚注

参考文献

関連作品

関連項目

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