楽焼
手捏ねで作製した陶磁器
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楽焼・樂焼(らくやき)は、轆轤を使用せず、手とへらだけで成形する「手捏ね」(てづくね)と呼ばれる方法で成形した後、赤楽はおよそ900℃〜1,000℃前後、黒楽はおよそ1200℃の低火度で内釜という独特の窯を使い焼成した一品制作の形をとった軟質施釉陶器である。

楽焼(らくやき)
(1) 安土桃山時代、16世紀後半、日本の京都であめやと比丘尼(びくに)の子である長次郎(初代)が創始。田中宗慶とその子である常慶(二代)、宗味とともに樂焼工房を構える。いつ頃から「樂焼」と呼ばれ始めたかは不明とされるが、五代樂吉左衛門による『宗入文書』にて「樂」の由来は豊臣秀吉から「樂」の印を賜ったと記されている。以降、一子相伝で樂吉左衛門を襲名し、現在の十六代を含む歴代の樂吉左衛門が制作する陶器、または樂吉左衛門の窯にて焼成された陶器が狭義の樂焼である。樂家に分家は存在しないが、例外的に本阿弥光悦は、樂吉左衛門から土を調達し、樂吉左衛門の窯にて焼成していたことから狭義の樂焼に含まれることも多い。
(2) 広義には樂家が生み出した独自の様式から波及して、各地で焼かれている樂家以外を含めた日本の陶磁器における楽焼様式、あるいはその様式で焼かれた陶磁器の事を指す。代表的な例を挙げると玉水焼(弥兵衛焼)、金沢の大樋焼、京都の和楽窯、昭楽窯、長楽窯、楽入窯、湊焼、吉向窯等であり、仁阿弥道八や清水六兵衛等も一部作品にこの楽焼様式にて作陶した物が見られる。[1]
双方共に茶道具(茶碗、茶器、水指、花入、香合、蓋置、建水など)や炭道具(灰器、火入、香炉など)のほか、向付などの懐石道具、煎茶道具を主に制作する。

「楽焼」表記・呼称の変遷
樂吉左衛門による樂焼は「樂吉左衛門」を参照。
いつ頃から「樂焼」と呼ばれるようになったのかは不明とされている[1]が、当初は「いまやき」「聚樂焼」と呼ばれていた。長い期間、樂吉左衛門以外に誰も樂焼を制作していなかった為、あえて樂焼と記す必要性はなく、江戸中期頃は長次郎焼やのんこう焼と書付が行われている。およそ江戸後期頃から樂吉左衛門以外で樂焼様式の楽茶碗が焼かれるようになり、他方から楽焼という名称が見られるようになる。そもそも江戸時代中期頃までの茶人の書付などにあるように(作者名)焼と書かれており現在のような用法ではあまり使われておらず、誰々が焼いたという意味合いでの正確な用法であった。様式自体は〇〇釉、〇〇風、あるいは単純に「黄瀬戸」や「高取」など示されていたが、江戸後期〜明治以降、市民が自由な作陶が出来るようになるにつれ〇〇焼という用法も各々が自由に書くようになり、結果的に広義の楽焼様式の意味合いを兼ねる言い回しとして現在は使われるようになってしまっている。
大樋焼でも同様のことが起きており、江戸時代中は加賀藩の御用窯であった為、代々大樋長左衛門と僅かな門人以外に大樋焼は存在しなかったが、明治以降、大樋様式を用いて作陶し大樋焼と名乗る窯が増えすぎてしまい、大樋長左衛門家は後に長左衛門窯とするようになった。
楽焼を主に作陶する窯一覧
- 樂吉左衛門(1500年代〜現在)
- 詳細は「樂吉左衛門」を参照。現在当主は十六代樂吉左衛門。
- 玉水焼(1688年頃〜明治初期頃)
- 弥兵衛焼とも言われる。四代樂吉左衛門(一入)の庶子であった一元が江戸時代の元禄年間、母方の実家である伊縫(いぬい)家があった山城国玉水(現・京都府井手町)で開窯。
- その後玉水焼は八代続き、明治初期に廃窯となった[2]。
- 大樋焼 長左衛門窯(1666年〜現在)
- 四代樂吉左衛門(一入)の高弟子であった長左衛門が仙叟(裏千家4代千宗室)に同行し、石川県河北郡大樋村(現・金沢市大樋町)で開窯。歴史上は楽焼様式の派生ではあるが、一般的に大樋焼としての様式が存在する為、楽焼ではなく大樋焼として広く認知されている。詳細は「大樋焼」を参照。現在当主は十一代大樋長左衛門(年雄)。
- 和楽窯(江戸後期文政時代〜現在)
- 京都祇園八坂神社鳥居前茶屋『短冊楼』の主である七左衛門が、楽焼窯元『短冊家』を開窯。現在当主は八代目、川嵜基生。[3]
- 昭楽窯(1905年〜現在)
- 明治38年(1905年)佐々木吉之介が京都洛中から東山清水寺門前に居を移し茶の湯楽焼窯『昭楽窯』を開窯。その後亀岡の山里に窯を移す。現在当主は佐々木慎吾。[4]
- 長楽窯(1906年〜現在)
- 明治39年(1906年)、丹波南桑田郡国分庄(現・亀岡市千歳町)小川左右馬法眼源政幸の次男・小川大治郎が、臨済宗建仁寺派第四代管長・竹田黙雷老師に参禅し「長樂」を、裏千家今日庵十三代 円能斎宗匠より長くよき友たらんと「長友軒」の号を賜り、京都五条坂 若宮八幡の傍らに独立、開窯。現在当主は三代小川長楽。[5]
- 楽入窯(明治中期〜現在)
- 現当主の祖父にあたる甚四郎(後の初代楽入)は砥石製造の傍ら、趣味で楽焼を楽しんでおり、戦後平和産業の需要の高揚を受け、楽茶碗造りを副業として行う。現在当主は三代目萬福堂吉村楽入。[6]
特徴
低火度焼成による楽焼は、胎土が強く焼き締まらず軟らかい土質を保有する。したがって、日常食器としては扱いがやや面倒であるが、吸水性と保水性が高く、茶の湯の茶碗としてはそれが逆に用途に適し良さとなる。すなわち熱い湯を入れて茶を点てても、軟らかい土質は熱の伝導を散らげ、心地よい温かさとなって手に伝わる。また、ゆっくり温め使用すると保温効果が高く、点てたお茶が冷めにくい利点がある。[1]
黒楽
樂吉左衛門、初期の製法としては、素焼き後に加茂川黒石からつくられた鉄釉をかけて陰干し、乾いたらまた釉薬をかけるといったことを十数回繰り返してから1000℃程度で焼成する。焼成中に釉薬が溶けたところを見計らって窯から引き出し急冷することで、黒く変色する。これは美濃焼と共通する手法である。
赤楽
胎土を素焼きし、透明の釉薬(白玉フリットに長石、珪石を調合する)をかけて900℃〜1000℃程度で焼成する。利休のエピソードに秀吉は黒楽を嫌い赤楽を好んだとある(『神屋宗湛日記』)。