尾形乾山
1663-1743, 江戸時代の陶工、絵師
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生涯


京都の呉服商、雁金屋の三男として生まれ、権平と名付けられる。6歳上の兄は尾形光琳である。貞享4年(1687年)、父の遺言により、室町花立町・本浄華院町・鷹ヶ峰3つの屋敷と書籍・金銀などの諸道具を、光琳と折半で譲り受けた。遊び人で派手好きで遺産を放蕩に費やした兄・光琳と対照的に、乾山は莫大な遺産が手に入っても、内省的で書物を愛し隠遁を好み、黄檗宗の僧から与えられた霊海[1]や逃禅などを号して地味な生活を送った。元禄2年(1689年)、仁和寺の南に習静堂を構え、参禅や学問に励んだ。この仁和寺門前には野々村仁清が住んでおり、乾山は早くから光悦の孫の光甫や楽一入から手ほどきを受けていたこともあり、仁清から本格的に陶芸を学んだようだ。37歳の時、かねてより尾形兄弟に目をかけていた二条綱平が京の北西・鳴滝泉谷の山荘を与えたため、ここに窯を開く。その場所が都の北西(乾)の方角あたることから「乾山」と号し、出来上がった作品に記した。正徳2年(1712年)、50歳のとき、京都市内の二条丁子屋町(現在の二条通寺町西入北側)に移住し、多くの作品を手がけた。作風は自由闊達な絵付けや洗練された中にある素朴な味わいに特徴があり、乾山が器を作り光琳がそこに絵を描いた兄弟合作の作品も多い。享保16年(1731年)、69歳の時、輪王寺宮公寛法親王の知遇を受け、江戸・入谷に移り住んだ。江戸滞在期には立林何帠を絵画の弟子とした[2]。元文2年(1737年)9月から初冬にかけて下野国佐野で陶芸の指導を行う。その後江戸に戻り、81歳で没した。辞世は「うきこともうれしき折も過ぎぬればただあけくれの夢ばかりなる」[3]。
乾山には子がなかったが、その名は6代(大正12年(1923年)没)まで続き、昭和44年(1969年)6代で乾山の号を終わらせることを関係者一同で承認した[5]。
代表作
重要文化財指定の作品



陶芸
光琳との合作
※乾山が作陶、兄の尾形光琳が絵付けを担当した作品
絵画
- 色絵椿文輪花向付 大阪市立東洋陶磁美術館
- 銹絵十体和歌短冊皿 1743年 東京国立博物館
- 茶碗 銘夕顔 大和文華館