榊原新左衛門
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生涯
天保5年(1834年)、榊原照賢の子として誕生。幼名は錩之介。母は粕谷氏。嘉永2年(1849年)、養父照融の後を継ぎ、800石となる。中ノ寄合に出仕し、翌5年(1852年)、小姓となり、その翌年には使番と昇任を重ねる。さらに安政3年(1856年)、寄合指引、同年5月、書院番頭、大番頭へと昇進し与力がつくなど、三河譜代の名門として藩内の指導的な地位を固めていった。水戸藩に戊午の密勅が降下した際には、藩主・徳川斉昭を補佐し、安政6年(1859年)には大寄合頭に就任した。桜田門外の変とも藩内の尊皇攘夷派を統べ、文久3年(1863年)には藩主・徳川慶篤に随行し上洛、攘夷実行の機を得られたとの感触を得て、同年6月には異国からの来襲に備える御備調練司となった。
元治元年(1864年)3月、筑波山には藩内尊皇攘夷派が挙兵し、水戸天狗党の乱が起こる際に執政に就任した。5月に市川三左衛門が藩内親幕府勢力である諸生党を率いて江戸藩邸の政務を掌握すると、照煦は一隊を率いて江戸に出府し、諸生派を排して再び藩政を掌握する。諸生派と水戸天狗党が戦いを始めると、定府の役目にて江戸を離れることができない藩主・徳川慶篤は名代として水戸藩支藩主の一人で宍戸藩主・松平頼徳を派遣し、水戸表の平定を命じた。照煦らはこれに随行し、尊皇攘夷派もこれに随ったため、水戸藩に篭城する諸生派は頼徳の水戸城入城を拒否した。これに憤激した尊皇攘夷派は諸生派と合戦に及ぶと、頼徳以下、尊皇攘夷派の志士たちは諸生派を支援する幕府より賊軍とみなされ、頼徳は恭順の意を示して降伏。頼徳が罪を得たことで、自らも抗争の名目を失った照煦ら1000の将兵も幕府に降伏した。照煦は古河藩に預けられ、翌慶應元年4月、古河藩内にて切腹した。享年32。