樋口篤三
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静岡県沼津市出身。旧制静岡県沼津商業学校、 海軍甲種飛行予科練習生を経て、横浜高等商業学校を卒業。1947年から労働運動に参加し、産別会議東芝堀川町労組書記や日本共産党専従などを務めた。権力・資本からは五回首を切られ、共産党からは二回除名(1951年3月、1965年2月)されたとされる[3]。
ベトナム反戦運動期には共産主義労働者党の中心メンバーであり、1971年の分裂時には春日庄次郎などと労働者革命派(後の労働者党全国委員会)を結成して議長に就任した[4]。
1975年から1986年、雑誌『季刊労働運動』代表を務めた。1977年、雑誌『労働情報』創刊に参加して初代編集人・全国運営委員長に就任した[3]。
雑誌『労働情報』・『新地平 月刊労働者総合誌』・『世界から』編集委員、ワーカーズ・コレクティブ調整センター世話人、協同社会研究会顧問[5]・共同代表、東久留米市民自治研究センター理事長、キューバ友好円卓会議呼びかけ人[6]・共同代表、日本労働ペンクラブ会員、「警察・検察の不法・横暴を許さない連帯運動」呼びかけ人[7]を務め、「これからの社会を考える懇談会」(コレコン)やピースボート、生活協同組合などに関わり、労働運動・社会運動に影響を与えた[8]。
2007年5月に東大名誉教授の戸塚秀夫などと「JR総連聞き取り研究会」(当初は松崎明を囲む「勉強会」)を組織した[9]。
政治学者の五十嵐仁は、「樋口は,左派労働・社会運動における草の根のフィクサーとも言うべき人物であり,幕末であれば志士の一人になっていただろう。」[10]と評している。