権懐恩
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蔭官により太子洗馬に任じられた。咸亨元年(670年)、尚乗奉御となり、盧国公の爵位を嗣いだ。ときに尚乗奉乗の安畢羅が馬の調教を得意とし、高宗に可愛がられていた。懐恩は安畢羅が高宗の側近でふざけて無礼を働いたと上奏し、安畢羅に杖罰40を加えた。その日のうちに懐恩は万年県令に任じられた。その統治は清廉公正かつ厳粛であり、禁令を断行し、前後の京畿の県令で及ぶ者がなかった。のちに懐恩は慶州・萊州・衛州・邢州の刺史を歴任し、洛州長史となった[1][2]。
懐恩の容姿は雄々しく、官服礼装を身に着けた後は、妻子すら仰ぎ見ることがなかった。かれの威名は輝き、民衆や官吏はかれの前で足を重くして立ちすくんだ。まもなく懐恩は宋州刺史として出向した。ときに汴州刺史の楊徳幹がまた厳粛なことで懐恩と名声を等しくしていた。懐恩が汴州に立ち寄り、楊徳幹が郊外に見送りに出た。懐恩は新しい汴橋の途中に立木があって車での通過を邪魔しているのを見て、「民の通過は阻止できないではないか。これを何に用いるのか」と楊徳幹にいった。楊徳幹は大いに恥じ入り、当時の世論は楊徳幹が懐恩に及ばないとみなした。懐恩は益州大都督府長史に転じ、ほどなく死去した[1][2]。