権現堂城
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歴史
標葉清隆は嘉吉年間(1441年-1444年)に居城を請戸城から本城館へと移したが、本城館は平城であり防御に不向きであったため、数年後の文安年間(1444年-1449年)には700mほど北に位置する丘陵部に権現堂城を築き本拠とした。城の名は、標葉氏が守護神として「出羽権現」をまつったことに由来する[3]。 標葉氏領の南隣の楢葉氏が文明6年(1474年)に岩城氏によって滅ぼされると、標葉氏はいよいよ北の相馬氏、南の岩城氏の両勢力の圧に晒されるようになり、明応元年(1492年)に相馬氏による攻撃を受ける。支城の攻略など、戦いは半年以上に及んだが、相馬軍は権現堂城への総攻撃直前、相馬領主相馬高胤が陣中に没したため撤退した。しかし、相馬氏の家督を継いだ相馬盛胤は、明応元年(1492年)12月、再び権現堂城攻略の兵を挙げる。標葉隆直、標葉隆豊ら一族が相馬軍に内応したこともあり、権現堂城は落城。城主標葉清隆、嫡子隆成は自刃し標葉宗家は滅亡した。
相馬氏の支配下では一族の重鎮岡田氏が城代として入城し、戦国末期まで支城として機能した。慶長7年(1602年)、相馬氏が関ヶ原の戦いへの不参加を理由に改易された際、他の支城と合わせて廃されたと考えられる。
- 雷神社(外郭)
- 主郭・外郭間の空堀
- 西側の空堀
