江戸時代初め、宿場町として整備されると、江戸近郊随一の宿場町となり歓楽街としても栄えた[17]。商業の町でもあり、周辺に田畑を持つ多くの農家が作物を運び様々な商店が並んだ。また隅田川は重要な水上交通路で農作物や水産物が江戸市中に送られ、多くの物資と人が行き交う流通の拠点だった[17]。
1790年(寛政12年)の地図によれば当時の千住宿は間口7間から10間(13〜18メートル)を一つの区画とし、一軒分として数えた[18]。
明治に入り鉄道の発展とともに宿場は衰退した。また関東大震災、戦争により、家並みもかつての様子を知ることは困難な状況になった[18]。しかし千住の街には戦火や大地震から逃れた家屋や蔵も残存しており[19]、四丁目の横山家宅から五丁目にかけての家並みは当時の様子を現在に伝えている[7]。