横山隆興
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加賀国金沢(現・石川県金沢市)出身。加賀金沢藩で加賀八家と称された家老職などを務める年寄衆(人持組頭)8家の一つ、3万石を知行する横山氏嫡流の当主であった横山遠江守隆章の三男[2]として江戸期末に生まれ、後に1869年に分家する[1]。明倫堂で和漢の学を修める[1]。大阪開成学校に学ぶ[1]。明治後期に男爵位を授爵した隆平の弟であり、その子である隆俊の叔父[1][3]にあたる。彼らを含む一族の多くがかかわって鉱業経営に従事する[1]。その中で隆興が最も力を注いだのが、石川県南部にある尾小屋鉱山の経営だった。隆興は西洋の最新式の製法を取り入れるなど、積極的に事業を展開する。更に新たな銅の鉱脈を掘り当て、鉱山を拡大し最盛期には1700人の鉱夫を抱える[4]。鉱業にとどまらず、加州銀行頭取、金沢電気瓦斯取締役を務めるなど[2]、大正5年に没するまで金沢を代表する実業家の一人として活躍した[5] [6]。住所は石川県金沢市高岡町[1]、同市上柿木畠[3]。別邸として、金沢市内寺町近くの犀川沿いの崖地に金沢別邸(その一部は現・「辻家庭園(旧横山家迎賓館)」及び金茶寮)、京都・南禅寺に京都別邸「智水庵」を営んだ[7]。金沢別邸の豪奢な様子は徳田秋声の自伝的短編作「菊見」に描写されている。墓所は野田山墓地。