樺正董
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鳥取市定府内町に生まれる[4]。藤六、とめの長男[4]。家庭は織物屋兼紺屋だった[6][7]。
13歳の時故郷を出て大阪へ行く。これは、勉強するのに都合の良い所を見付けようとしたのであった。[8]。しかし金は無く[8]、ただ着のみ着ままで出たため、大阪に着いたら最早一厘の貯えもなかった[8]。そこで、或る家に奉公することになった[8]。主人の使い歩き、時には子守なども命令された[8]。正董は快くこんな仕事をし、機会があれば書物を読んで勉強していた[8]。
その後、伯父の平井太郎(当時輸出入商)を頼り東京に出、東京物理学校に籍をおき、明治14年(1881年)11月より四ヶ月間、酒井忠量に師事し数学を学んだ[9]。
明治15年(1882年)4月埼玉県不動岡中学校の教員となり、間もなく富山師範学校に移った[9]。
明治18年(1885年)7月より東京帝国大学理学科に入学し、一ヵ年間寺尾寿について天文学を修めた[9]。しかも、数学はもっぱら独習し、英語、仏語、独語などの語学も勉強することを怠らなかった[9]。美術、代数、幾何、三角、重学、天文の六科について文部省の教員免許状を受け、永らく中等学校や大学の数学教師を歴任した[9]。
明治40年(1907年)欧米各国を巡って数学教育事情を調査研究した[10]。欧米諸国から帰ってくると、朝鮮総督府に招かれて、約二ヵ年にわたり、朝鮮の数学教科書の編纂に従事した[10]。
勤務した学校は不動岡中学、富山県師範学校をはじめとして、岐阜県中学校、新潟県中学校、中央幼年学校、私立成城学校、麻布中学、日本女子大学、慶應義塾大学など十指に及んでいる[9]。
人物像
家族・親族
史料
因伯時報(大正十五年四月十一日号)
正董は64歳をもって一生を閉じた[16]。
- 樺正董氏の遺骨は、九日、観音院で納骨
前慶應義塾大学教授樺正董氏は、昨年糖尿病に罹り享年六十四才にて長逝したが、その遺骨が本市立川町内に到着したので、去る九日午後三時上町観音院に於て納骨式を執行したが、来賓は小松崎一中校長、遠藤静修高女校長、小沢中佐、其他多数友人知己並に一中生徒総代、同氏嗣子・剛氏義弟池内氏等参列あり、午後五時半盛会裡に終了した。
尚同氏は日本数学の大家として知られ、陸軍大学女子大学等に教鞭を取り、洋行帰朝後は永く慶應義塾の教授を為し、著書頗る多く中等学校代数学教科書発行部数十万冊以上に及び、同種類教科書中最も多くの発行部数を有する。尚嗣子・剛[17] 氏は器械輸入商として発展し、長女八重氏は東京毛織重役塚口氏に嫁し、令孫俊雄[18] 氏は京都帝大法科に在学中にあると。