橋本麗子 From Wikipedia, the free encyclopedia 時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代生誕 天保6年6月12日(1835年7月7日)死没 明治22年(1889年)3月7日[1]別名 大納言典侍 凡例橋本 麗子時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代生誕 天保6年6月12日(1835年7月7日)死没 明治22年(1889年)3月7日[1]別名 大納言典侍戒名 天瓔院淳唐昌和興仁大禅定尼墓所 青山霊園官位 従四位上、大納言典侍主君 和宮親子内親王氏族 橋本家父母 父:橋本実麗、母:静子(萩原員維の娘)兄弟 実梁、麗子、松子子 夏子、房子テンプレートを表示 橋本 麗子(はしもと れいこ)は、幕末から明治時代の公家女性。 橋本実麗の娘。義兄に橋本実梁。同母妹に池尻胤房の正室橋本松子。子に明治天皇の権典侍橋本夏子。また、叔母・橋本経子(観行院)は仁孝天皇の典侍で和宮の生母であり、麗子は和宮の従姉に当たる。 和宮の江戸降嫁に従い、江戸に下ったと言われる。その際、大叔母である姉小路(勝光院)に推挙され、大奥になど行きたくないと反発するも、結局大奥へ下らされたとも言われている。大奥では、庭田嗣子、絵島、土御門藤子、鴨脚克子らと共に天璋院、実成院と激しく対立した。役職は庭田嗣子らと同じ上臈上座であった。 顔は容姿端麗とする書物もある。和宮の死後、京へ戻り、明治22年(1889年)に死去した。 結婚と離婚 従四位少納言・東坊城夏長の正室となるが、のちに離縁する。離縁の理由は廷臣八十八卿列参事件からだといわれている。また、男子がなく、養子東坊城任長をとった。しかし本当は橋本夏子は2人の娘(次女)であり、夏子が生まれた翌年(廷臣八十八卿列参事件の翌年)に夏長が死去し、夏長の弟、任長が家を継いだので麗子と夏子は橋本家に戻り、夏子を父の養女にし、和宮の女官として大奥に下った。その後、夏子は実麗の実子として宮仕えする。また、麗子の長女は東坊城房子である。 一族縁者 父:橋本実麗 母:萩原静子 妹:橋本松子 義兄:橋本実梁 夫:東坊城夏長(父は東坊城聡長) 長女:東坊城房子(河盛新右衛門の正室) 次女:橋本夏子(明治天皇典侍) 養子:東坊城任長 叔母:橋本経子(仁孝天皇典侍)ほか 従妹:和宮親子内親王(仁孝天皇第八皇女、静寛院宮) 脚注 ↑ 『国民過去帳 明治之巻』(尚古房、1935年)p.277 出典 『華族家系大成』 『現代華族譜要』 登場作品 有吉佐和子『和宮様御留』 阿井景子『和宮様お側日記』 Related Articles