文章生から讃岐掾を経て、後一条朝初頭の寛仁元年(1017年)非蔵人となる。治安元年(1021年)六位蔵人に補せられると、蔵人の傍らで図書権助・修理亮・式部丞などを務め、万寿元年(1024年)従五位下に叙爵した。
長元6年(1033年)越中守に任ぜられるが、長元7年(1034年)4月に任国で卒去。享年53。最終官位は越中守正五位下。
その作歌は『後拾遺和歌集』(3首)、『新続古今和歌集』(1首)などに入集されており[1]、歌人として名を遺した。同じく歌人である能因法師の姉妹を妻とした。『枕草子』の写本系統の一つ・能因本は、この関係からの伝来とされている。