橘糸重

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死没

1939年8月31日(1939-08-31)(65歳没)

[注釈 1]
研究分野 音楽学
橘 糸重
人物情報
生誕 (1873-10-08) 1873年10月8日
日本の旗 日本 三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市
死没

1939年8月31日(1939-08-31)(65歳没)

[注釈 1]
出身校 東京音楽学校
学問
研究分野 音楽学
研究機関 東京音楽学校
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橘 糸重(たちばな いとえ、1873年(明治6年)10月18日 - 1939年(昭和14年)8月31日[1][注釈 1])は、日本の音楽家、敎育者、歌人

1873年、三重県鈴鹿郡亀山町(現・亀山市)生まれ。生後まもなく父を亡くし、1874年に母、姉とともに上京。東京音楽学校(現・東京芸術大学)でピアノなどを学び、1892年に卒業。卒業後は研究科に進む。1896年より同校助教授となった。1901年に教授昇進。1928年に教授を辞した[3]後は1939年に亡くなるまで嘱託講師(時間講師)として勤務した[4]。1937年より帝国芸術院会員。ラファエル・フォン・ケーベルを音楽上のみならず宗教上の師とした。また、1931年(昭和6年)に来日したレオニード・クロイツァーの講習会を受講した記録もある[5]

歌人としては竹柏会に入り、佐佐木信綱に師事した。瀧廉太郎の歌曲「水のゆくへ」は、竹柏会発行の「竹柏園集」(第一編)に糸重が発表した新体詩に作曲されたものである。

関連

  • 瀧廉太郎高木東六東京音楽学校の教え子。
  • 島崎藤村が東京音楽学校選科に学んだ際に助教授として知り合い、藤村の小説『水彩画家』、『家』に登場する女性音楽家は糸重をモデルとしたものである。そのために藤村の恋人伝説が生まれたが、単に一度小諸に藤村を訪ねただけである。文壇の噂となったことを恥じ、生涯独身を通した[6]

脚注

参考文献

外部リンク

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