橘義通
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一条朝の寛弘5年(1008年)蔵人所雑色に補され、寛弘7年(1010年)左兵衛少尉に任ぜられる。寛弘8年(1011年)正月に六位蔵人となるも、同年6月の一条天皇の譲位に伴って義通は蔵人を辞するが、10月に改めて三条天皇の蔵人に再任された。のち、兵部丞・式部丞を経て、長和3年(1014年)従五位下に叙爵している。
乳母子として敦成親王家の蔵人を務めるなど親密な繋がりがあった親王が即位(後一条天皇)すると、寛仁3年(1019年)義通は昇殿を聴された。治安2年(1022年)頃に備後守を務めている。また、長元4年(1031年)に義通なる人物が少納言に就いているが、橘義通かどうかは不明[1]。後朱雀朝初頭の長元9年(1036年)には美濃守を帯びるなど、再び受領を務めている。
後冷泉朝に入ると、永承7年(1052年)ごろの主殿頭を挟んで、治暦年間初頭(1065年頃)に筑前守に転じみたび受領となるが、在任中の治暦3年(1067年)2月17日卒去。『後拾遺和歌集』に和歌作品2首が入集する勅撰歌人でもあった。
官歴
- 寛弘5年(1008年) 正月29日:蔵人所雑色[2]
- 寛弘7年(1010年) 8月:左兵衛少尉[3]
- 寛弘8年(1011年) 正月8日:六位蔵人[4]。2月1日:右衛門少尉?[5]。6月13日:去蔵人(譲位)、院蔵人[5]。10月19日:六位蔵人[6]
- 寛弘9年(1012年) 4月19日:禁色宣旨、見蔵人兵部丞[7]
- 長和2年(1013年) 4月10日:見蔵人式部丞[8]
- 長和3年(1014年) 正月6日:従五位下?[5]
- 寛仁3年(1019年) 3月16日:昇殿[2]
- 治安2年(1022年) 7月14日:見備後守[9]
- 万寿2年(1025年) 10月27日:見備後守[4]
- 長元9年(1036年) 5月17日:見美濃守[10]
- 永承7年(1052年) 4月22日:見主殿頭[11]
- 天喜4年(1056年) 2月22日:正四位下(殿の職事)[12]
- 治暦頃:筑前守[13]
- 治暦3年(1067年) 2月17日:卒去