檀ノ浦 (屋島)
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屋島の南東山腹には屋嶋城(屋島城)があり、その真東の麓の先に入江が広がっていて、日本語としては、この入江、すなわち「浦(入江)」[3]が「檀ノ浦」であったか、もしくは、入江の西の「浦(海辺)」[4]が「檀ノ浦」であった[* 1]。ここの入江には、今も昔も真北に流れる相引川が注ぎ、北に向けて備讃瀬戸に開けている。相引川の両岸は江戸時代に盛んに埋め立てられ、開拓されて塩田と水田に変わった。その流れのなかで屋島はほとんど島でなくなり、南麓側と東麓側で相引川が四国本土と隔てているだけのほぼ陸続きになった。相引川は依然として備讃瀬戸に注いでいるが、埋立地は塩田と水田から住宅地と市街地に変わってゆき、多くの人々の住む所となった。
飛鳥時代にあたる大宝2年(702年)、大宝律令によって讃岐3軍団の一つとして屋島に山田軍団(讃岐国山田郡の軍団)が置かれ[3]、この地の入江か海辺かあるいはその両方かは分からないが、「団の浦」の意をもって「檀之浦/壇之浦(だんのうら)」と呼ぶようになったと考えられる[3]。