武内大造
From Wikipedia, the free encyclopedia
1873年(明治6年)2月3日、埼玉県草加町(現在の草加市)に、薬種商を営む武内作蔵と妻なみの次男として生まれる[2]。東京帝国大学文科大学独逸文学科を1900年に卒業した。
同年、東京外国語学校の教授に任命された。1907年には第七高等学校造士館教授に転じ、1914年、再び東京外国語学校教授に就任した。1932年に同校を退官し名誉教授の称号を受けた後も、講師として1939年まで教壇に立った[3] [注 1]。 武内は、当時の語学教育が通訳(Dolmetscher)養成に偏る傾向を批判し、語学は人格形成や思想形成のための「手段(Mittel)」に過ぎないと論じた[5][注 2]。
このほか、東京高等商業学校(現在の一橋大学)や独協学園においても兼任講師を務めた[6][7]。
1909年から1911年にかけて、文部省留学生としてドイツに留学し、ベルリンのフンボルト大学で学んだ[8][9]。帰国後は、専門教育にとどまらず一般向けの語学教育にも力を注ぎ、日本で最初のラジオによるドイツ語講座の講師を務めた[10]。1918年には高等試験臨時委員に任命され、国家試験制度における語学分野にも関与した[11]。
墓所は東京都豊島区の雑司ヶ谷霊園に。