武周の3人の子は幼少の頃から器量があり、郷里で評判があった。武周は同郡出身の劉公栄に対し、子らと面会させて人物鑑定を願い出た。劉公栄は、それぞれと語り合った後で「武陔は宰相の器であり、他の弟2人も高官に昇るだろう」と予言した。
武陔は、劉公栄の予言通り三公の一歩手前まで昇ったが、魏が禅譲により晋になると、積極的に職務を履行しなくなり、清廉のまま亡くなったので当時の美談となった。『晋書』に伝が立てられている。
武韶・武茂もそれぞれ晋の高官になった。しかし武茂の母は楊駿の縁者であった事から、八王の乱により楊駿が誅殺されると、その一族の処刑に連座する事になり処刑された。その死去は冤罪として悼まれた。