武林尹隆
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出自
生涯
赤穂藩士・渡辺式重の子として誕生。母は北川久兵衛の娘。弟に赤穂浪士の武林隆重。
元禄14年(1701年)の主君・浅野長矩の刃傷事件による赤穂藩改易後、弟・隆重とともに一貫して討ち入り参加を望んでいたが、両親がともに病に伏したため、どちらかが生き残って看病せねばならなくなった。隆重やその依頼を受けた大石良雄から討ち入り参加を諌止されて、元禄15年(1702年)閏8月11日にやむなく脱盟した。
弟が討ち入り後に切腹した後、両親の死を看取り浪人を続けたが[3]、宝永6年(1709年)綱吉に代わり家宣が将軍宣下を行う。それにより、義士の遺子に対する大赦が行われた。そこで尹隆も広島藩浅野本家に招かれ、この際に渡辺姓から弟の武林姓に変えて「武林勘助」と名乗るようになった。なお、正徳3年(1713年)に大石良雄の遺児・大石大三郎も広島藩に召抱えられることになった際に、尹隆が大三郎のいる豊岡藩まで迎えに派遣されている。
広島藩の武林家は尹隆の曽孫・武林隆斌の代で断絶した。国泰寺にあった武林氏家祖の墓は昭和20年(1945年)8月6日の原爆投下で全焼全壊した。昭和53年(1978年)に国泰寺が広島市西区の己斐に移転した際、大三郎の墓とともに再建されている[4]。