赤穂藩
播磨国に所在した藩
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赤穂藩(あこうはん)は、播磨国に1615年(元和元年)から1871年(明治4年)まで存在した外様大名による藩。池田政綱が初代藩主をつとめ、以降は浅野家、永井家、森家の計4家が藩主となった。藩庁は赤穂城(現兵庫県赤穂市)に置いた(他の拠点として穂積代官所)。石高は藩主家によって変動があるが、最後で最長の期間赤穂を治めた森家の治世では最低の2万石となっている。
「元禄赤穂事件」(創作では忠臣蔵)の浅野家(岡山県にも血族が居る)が治めた藩として有名だが、最も長く在封したのはその後に移封されてきた森家である。なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった[注釈 1]。
藩史
前史
安土桃山時代、のちの赤穂藩領に相当する赤穂郡は基本的に宇喜多秀家の所領であった[1]。一旦天正14年(1586年)、生駒親正が赤穂6万石に封ぜられたものの[2]、翌15年(1587年)に讃岐国高松に転封となり、赤穂は再び宇喜多秀家による統治に戻った[注釈 2][4]。赤穂郡奉行をつとめたのは岡光顕であったとつたわる[5]。宇喜多秀家は関ヶ原の戦いで西軍につき、戦後に改易のうえ流罪となった[6]。
姫路藩領時代
徳川家康の娘・督姫の婿であり、関ヶ原の戦いで東軍に属した池田輝政は大幅な加増を受け、播磨一国姫路藩52万石に封じられた[7]。姫路藩内には6つの支城がおかれ、その一つとなった赤穂城には池田輝政の末弟・池田長政が2万2000石で配された[注釈 3][9]。長政は新たに城を構えたというが、慶長8年(1603年)に池田輝政の息子・池田忠継に備前国岡山藩28万石を与えられると同時に、備前国下津井3.2万石へ移されることとなった[9]。
こののち赤穂の管理は、赤穂郡代の垂水勝重が担うようになった[10]。慶長18年(1613年)に池田輝政が死去すると、長男・池田利隆(督姫の子ではない)が姫路藩を継ぐも、その石高は42万石であり、赤穂郡を含む10万石は督姫の化粧領として池田忠継(督姫の子)の所領(岡山藩)に編入された[11]。
池田家の時代
しかし、慶長20年(1615年)に督姫と池田忠継が相次いで死去し、淡路国洲本藩主で忠継の弟であった池田忠雄が岡山藩主を引き継いだ[11]。岡山藩領のうち10万石は、忠雄の弟3人に分治され、そのうち赤穂郡3万5000石は五男・池田政綱に割り振られ、赤穂藩が立藩した[12]。池田政綱の時代には、大阪城普請への参加を命じられている[13]。寛永2年(1625年)には、赤穂藩内にて検地(寛永検地)が行われた[注釈 4][15]。
寛永8年(1631年)、政綱は嗣子なく没し、同国平福藩で2万5000石を領していた弟の池田輝興が赤穂藩を相続した[16]。家臣団は平福藩から引き連れた輝興の家臣が主であったと推測されるが、一部政綱の家臣団も赤穂藩に残留していた[16]。池田輝政時代に表高をおよそ2割増しした慶長検地の値を、輝興の時代までには破棄したようである[17]。
しかし、輝興は正保2年(1645年)、突然発狂して正室や侍女数人を斬殺し、本家である岡山藩主池田光政の預かりとなり、改易となった(「正保赤穂事件」)[18][19]。赤穂藩領はいったん幕府領に編入され、備中国松山藩主水谷勝隆が預かることとなった[18]。
浅野家の時代
同年、代わって常陸国笠間藩より浅野長直が笠間藩時代と変わらず5万3500石で入部した[注釈 5][21]。赤穂藩浅野家は、五奉行浅野長政の3男・浅野長重を祖とする分家であった[22]。当時、浅野幸長の血を引く本家は広島藩(当時の藩主は浅野光晟)を治めており、赤穂は広島とも比較的近いことが、赤穂転封の一因であったという[21]。
長直は、池田家時代の赤穂城の地を拡張し、赤穂城を築城した[23]。慶安元年(1648年)に築城の許可が下り、寛文元年(1661年)に完成したという[24]。池田家時代に比べて家臣の数が増えたこともあり、侍屋敷を増築するなど、城下町の整備も行われた[25]。
慶安3年(1650年)、浅野家お預かりの大久保数馬・水谷山三郎の両名、喧嘩して双方絶命した。長直は江戸へ注進して検使が派遣され、死骸取捨の奉書(松平信綱・阿部重次連署)が発給された(慶安赤穂事件)。
寛文11年(1671年)、浅野長直が隠居し、浅野長友が赤穂藩主を引き継いだ[26]。そのうち3500石は義兄・浅野長賢に、新田高3000石を弟・浅野長恒に分知したため、石高は5万石となった[26]。この2つの旗本家は、のちに本家赤穂藩浅野家が断絶した後も、明治まで所領を安堵されていた[27]。
延宝3年(1675年)、2代目の長友が死去し、息子の浅野長矩が赤穂藩主を継承した[28]。延宝8年(1680年)には、財政難の打開策として、家老の大野知房らによって藩札が発行された[28]。
元禄7年(1694年)には、長矩の要望により、弟・浅野長広に新田高3000石の分知が認められた[27]。また翌年には長矩が疱瘡にかかり、後継問題が浮上したために、長矩の養子に長広がなることとなった[28]。
浅野家の断絶
長矩は天和2年(1682年)に幕府より朝鮮通信使饗応役に選ばれ、来日した通信使の伊趾寛(通政大夫)らを8月9日に伊豆三島(現静岡県三島市)にて饗応した。長矩治世では二度の血縁親族による刃傷事件があり(内藤忠勝と稲葉正休)、老中から赤穂藩主も謹慎を命じられている。
元禄14年3月14日(1701年4月21日)、長矩は江戸城中で高家旗本・吉良義央に斬りつける刃傷事件を起こした[29]。将軍徳川綱吉はこれに激怒し、長矩は即日に切腹を申し渡された[30]。養嗣子の浅野長広は閉門処分のほか、親類の大名にもお目見え遠慮といった処分が下ったのに対し、吉良側にはお咎めなしという結果になった[31]。長矩切腹を聞いた江戸の町人や浪人が、赤穂藩邸に忍び込んだり押し入り暴れる者が続出し、人数は四、五十人にも及んだ。大垣藩や浅野本家の広島藩から警護のものが派遣されている。堀部武庸も暴徒の撃退に協力し、金品強奪や破壊から藩邸を守ったという[32][33]。赤穂藩お取り潰しの報が、赤穂へ届いたのは同月28日のことであった[34]。赤穂城は龍野藩主・脇坂安照と足守藩主・木下㒶定が受け取り、脇坂が赤穂城番となった[35]。
当時の赤穂藩の藩札の発行高は九百貫あり、家老の大石良雄らは、藩札を額面の6割で銀と引き換え・回収を行った[注釈 6][37][38]。また、残存していた蔵米は家臣たちに支給された[37][34]。しかし、生活資金としては満足できる額には程遠く、のちに赤穂義士が生活苦を綴った書簡や日記が現存する[39][注釈 7]。
代官支配期と吉良邸討ち入り
浅野家の改易後、赤穂城は4月19日に脇坂安照に引き渡され、脇坂が城番をつとめ、石原正氏と岡田俊陳が赤穂代官として統治に当たることとなった[40]。
元禄15年(1702年)、連座して閉門となっていた元赤穂藩主家の浅野長広の閉門が解かれ、所領3000石は没収の上に、広島藩浅野綱長のもとにお預けとなった[41]。これにより、浅野家再興は不可能となり、吉良邸討ち入りが決定的なものとなった[41]。同年12月14日に、大石良雄を中心とした家臣による吉良邸討ち入りが起こり、すでに隠居していた吉良義央を殺害した(元禄赤穂事件)[42]。
宝永7年(1710年)に安房国朝夷郡・平郡500石に移され、減封となったが旗本に復した。長広の跡は嫡男の長純が家督を受け継ぎ、長直系浅野家は、安房国で続くことになる。
永井家時代
吉良邸討ち入りの少し前、元禄15年(1702年)9月に、下野国烏山藩より永井直敬が3万2000石で入部する[43]。しかし、永井尚長が浅野長矩の叔父により狂気のため[44]殺害されており、赤穂統治には消極的で宝永2年(1705年)、大洪水が発生して4000石を失う大被害を出す。宝永3年(1706年)には信濃国飯山藩へ転封となっている[45]。赤穂城内にあった赤穂義士の屋敷は、永井家赤穂藩では使用されず、森家が建物を破壊した。
浅野旧臣の建造物の残骸は放置され、中村清右衛門の屋敷跡地などはごみの投棄場所となり近代には完全に埋め立てられていた[46]。 近年の発掘調査で遺構(井戸の跡など)が出土している。
森家の時代
永井直敬に代わって、備中国西江原藩より森長直が2万石で入封した[45]。森家は廃藩置県まで続き、12代165年間と赤穂藩主としては最も長く在封することとなった[47]。森家の本家筋にあたる森忠政の家系はかつて津山藩を領していたが、元禄10年(1697年)に森衆利が相続する際に改易となっている[45]。すでに隠居の身であった津山藩2代目の藩主・森長継は、美作国内の新田高1.5万石を隠居領として領していたが、本家の改易に伴って備中国西江原に転封となり、西江原藩2万石を立藩することとなった[48]。翌11年(1698年)には、森長継の子・森長直が西江原藩主を継承し、ついで赤穂藩へ転封となった[48]。長直は塩の生産・研究に取り組み、塩を名産化したという[49]。
享保7年(1722年)に死去し、森三隆の子で、養子の森長孝が相続した[49]。しかし、翌8年(1723年)に急逝したため、家老の各務利直の嫡男・森長生が藩主位を継いだ[50]。享保15年(1730年)より、森家赤穂藩でも藩札が発行されることとなった[51]。しかし長生も、享保16年(1731年)に死去したため、弟の森政房が相続することとなった[52]。
享保の飢饉や米価の下落を理由で、享保年間ころより藩財政の窮乏が明らかになっていた[53]。享保15年(1730年)には上米(知行の一部返上)を命じたほか、享保18年(1733年)には家臣に5年間の倹約を命じている[54]。この年(享保18)には、赤穂藩札が信用できないといううわさが飛び交い、藩札の返銀を求める動きが広まった[55]。藩財政の窮乏は続き、元文4年(1739年)には5年間にわたる倹約が2度目に令された[56]。延享元年(1744年)には、赤穂藩史上でも最大の大風高潮が起こっており、再び上米を行っている[56]。その後も5年単位で上米が連続して行われた[57]。
延享3年(1746年)に政房は死去し、翌4年(1747年)に再び弟の森忠洪が相続した[58]。赤松滄洲や赤松蘭室のような儒家を徴用したという[59]。明和5年(1768年)に忠洪が隠居すると、嫡男の森忠興が相続した[60]。赤松の父子の検索を受け、安永6年(1777年)に藩校「博文館」が設立された[60]。安永9年(1780年)に忠興は隠居し、森忠賛が継いだ[61]。
赤穂藩を襲った凶作の中でも、特に天明の飢饉中の天明7年(1787年)は多くの被害・犠牲者を出した[62]。隣の林田藩で起こった打ちこわしは、赤穂藩にも飛び火する惨状を示した[63]。
享和元年(1801年)に忠賛は隠居して、その子森忠哲が継承した[64]。文化4年(1807年)に忠哲が急死すると、弟森忠敬が相続した[65]。文政7年(1824年)に忠敬が死去すると、嫡男の森忠貫が相続した[66]。しかし、文政10年(1827年)に12歳の若さで死去すると、公的には弟が死んだこととされ、弟の森忠徳(しばらく忠貫を名乗り、のちに改名)が兄の森忠貫にすり替わり藩主として生きた[67]。
幕末の安政4年(1857年)に佐幕派の一門・森主税(可彝)が家老になった。文久2年(1862年)1月に、忠徳は隠居して、その子・森忠典が相続した[68]。同年8月、尊皇攘夷論に傾斜を強めていた西川升吉(志士号は泰法)は京で、長州の久坂玄瑞・薩摩の海江田信義らと交流、帰藩して国事斡旋方に就く[69]。同年12月9日に中下級武士ら13名を集め、森主税を赤穂城の門前にて、藩儒(朱子学教授)の村上真輔(天谷)も用人屋敷で殺害された[68]。その次男で昌平黌[注釈 8]系の朱子学者・河原翠城は大坂より急ぎ帰国したものの襲撃者が待ち構えており、観念して福泉寺で自害した[70]。森主税家および村上家は断絶となった。13人は西川など7人が刑死または捕縛前に同士討ちで死亡、6人が高野山にある藩祖の墓守とされた。(「文久赤穂事件」)[71]
1869年(明治2年)の版籍奉還で藩主森忠儀が知藩事に就任[72]。1871年(明治4年)、廃藩置県により赤穂県となり、その後、姫路県・飾磨県を経て兵庫県に編入された。森家は1869年(明治2年)の版籍奉還とともに華族に列し、1884年(明治17年)には華族令の施行とともに子爵を授爵した。
歴代藩主
池田家
外様大名、石高:3万3000石
浅野家
外様大名、石高:5万3500石→5万石
永井家
譜代大名、石高:3万3000石
森家
外様大名、石高:2万石
| 代 | 氏名 | 肖像 | 受領名 | 在職期間 | 出自 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 森長直 もり ながなお |
和泉守 | 宝永3年1月28日 - 享保7年8月24日 (1617年2月5日 - 1654年12月18日) |
西江原藩より | |
| 2 | 森長孝 もり ながたか |
志摩守 | 享保7年10月23日 - 享保8年10月30日 (1617年2月5日 - 1654年12月18日) |
家老森三隆の子 長直の婿養子 | |
| 3 | 森長生 もり ながなり |
越中守 | 延宝3年3月23日 - 元禄14年3月14日 (1617年2月5日 - 1654年12月18日) |
家臣各務利直の息子 | |
| 4 | 森政房 もり まさふさ |
伊勢守 | 享保16年8月19日 - 延享3年12月6日 (1617年2月5日 - 1654年12月18日) |
家臣各務利直の息子 長生の弟 | |
| 5 | 森忠洪 もり ただひろ |
和泉守 | 延享4年2月6日 - 明和6年7月23日 (1617年2月5日 - 1654年12月18日) |
家臣各務利直の息子 政房の弟 | |
| 6 | 森忠興 もり ただおき |
山城守 | 明和6年7月23日 - 安永9年8月6日 (1617年2月5日 - 1654年12月18日) |
忠洪の子 | |
| 7 | 森忠賛 もり ただすけ |
伊予守 | 安永9年8月6日 - 享和元年5月23日 (1617年2月5日 - 1654年12月18日) |
忠興の弟 | |
| 8 | 森忠哲 もり ただあきら |
和泉守 | 享和元年5月23日 - 文化4年5月25日 (1617年2月5日 - 1654年12月18日) |
忠賛の子 | |
| 9 | 森忠敬 もり ただよし |
肥後守 | 文化4年9月5日 - 文政7年6月4日 (1617年2月5日 - 1654年12月18日) |
忠哲の弟 | |
| (10) | 森忠貫 もり ただつら |
文政7年8月5日 - (文政10年5月28日) (1617年2月5日 - 1654年12月18日) |
忠敬の子 | ||
| 10[注釈 9] | 森忠徳 もり ただのり |
信濃守 | (文政10年6月) - 文久2年1月21日 (1617年2月5日 - 1654年12月18日) |
忠貫の弟 公的には忠貫と同一人物 | |
| 11 | 森忠典 もり ただつね |
文久2年1月21日 - 慶応4年3月19日 (1617年2月5日 - 1654年12月18日) |
忠徳の子 | ||
| 12 | 森忠儀 もり ただよし |
越後守 | 慶応4年3月19日 - 明治4年7月15日 (1617年2月5日 - 1654年12月18日) |
忠典の弟 |
所領
石高と領地
赤穂藩の石高と所領変遷は以下のとおり。
- 元禄15年(1701年)、播磨国赤穂郡・加西郡、摂津国島上郡・島下郡、河内国茨田郡のうち70村、3.3万石で永井家が入封[75]。
- 宝永3年(1706年)、播磨国赤穂郡のうち2万石で森家が入封[45]。
赤穂藩の最大領域を達成した浅野家時代の所領は以下のとおり[76]。
藩邸
菩提寺
支藩など
- 若狭野浅野家(赤穂郡相生村) - 浅野家赤穂藩(長友の分知)の分家旗本。血筋は大石氏だったが、のちに別系統に変わっている。
- 家原浅野家(加東郡家原) - 同。血筋はやはり大石氏だったが、のちに藪家から養子・長充が入り大石の血筋ではなくなっている。
- 浅野大学家 - 浅野家赤穂藩(長矩の分知)の分家旗本(赤穂新田3千石)
- 三日月藩 - 森家赤穂藩の支藩
西江原藩
西江原藩(にしえばらはん)は、江戸中期の10年間存在した藩。元禄10年(1697年)森成利(蘭丸)の弟・忠政の家系で美作国津山藩主・森家の断絶にともない、津山藩2代藩主であった隠居中の長継が2万石で立藩した。
備中国後月郡西江原(現・岡山県井原市)周辺を領有し、西江原に陣屋が置かれた。宝永3年(1706年)2代・長直のとき、赤穂藩に転封し廃藩となった。
歴代西江原藩主
- 森家
外様 2万石
家臣団
経済・財政・文化
財政
赤穂藩の財政は非常に厳しかった。 浅野時代では、米成に卑穀(稗粟など)を加えた実高7万8千石(下記参照)のうち4万6千石が年貢物成、半分が家臣分(藩士548人のうち知行取は261人)[89]のため藩の歳入は2万3千石(為替で銀に換えると単純計算で四百貫の年収)。これに対し、長矩改易時点の藩札発行残が九百貫に達している。藩域が狭小となった永井・森時代にも財政赤字は解消されなかった。
- 『土芥寇讎記』によると浅野家統治時代の実高は、米成の五万石(赤穂郡一円で3万3000石、加東郡のうち8千石、加西郡のうち8千石、他1千石)のほか諸雑成[90]が二万八千石あり、年貢は平均で「六公四民」であったと記される[91](上田一石につき年貢七斗二升から、下々田一石につき年貢五斗五升まで)。諸雑成のうち畑の作物については「七公三民」[92]。他に工商にも課税、千種川を運行する船や木材・薪からも徴収されている。上大工に年三匁(下大工は二匁)を課し、船を持つ商人には帆一反につき銀一匁、船頭には荷駄代金の一割を徴収した。
- 脇坂氏(赤穂城預かり)でも赤穂城にて在番していた重臣(脇坂左次兵衛)が突如、乱心して同僚を斬り殺す『脇坂赤穂事件』[93]が起き、このため赤穂藩浅野家の多くの治世資料が散逸、もしくは龍野に持ち去られており[94]、公儀(上記「土芥寇讎記」のほか「諫懲後正」など)・宗家(広島藩)・隣国(岡山藩)の資料しか残っていない(本記事の第一項もそれらの数値を引用)。
- 元禄期には塩田の一割以上が荒浜化したため、浅野家では浜奉行(役料十石)・牧野太兵衛らを置き浜人の逃亡を取り締まった。それでも赤穂から人材と技術の流出は止まらなかった。周防の吉川家においては「元禄八年、赤穂浪人十数人来りて塩田工事を援け、故に総じて赤穂に模倣せるものの如し」と記されている[95]。
- 森家家臣団は、86人が知行取で[96]知行700石の家老が5人、知行取の石高計は1万2千石を超え藩政は困窮しており、時代を追うごとに悪化の一途を辿った。第5代藩主・森忠洪は財政改革を断行。藩主自ら質素倹約を行い、貯蓄を奨励した。更に塩田開発や蝋燭の原料となる櫨の植林等殖産興業にも努めた。しかし、財政の再建はままならなかった。第10代藩主・忠徳は文化6年(1809年)、遂に塩を専売制とした。1850年には借財が28万両に達した[97]。
藩札

赤穂藩での最初の藩札の発行は、浅野家時代の延宝8年(1680年)で、家老の大野知房らによるものであった[28]。浅野家赤穂藩が改易となるまでに、発行額は900貫に及んでいたという[99]。改易の際にほとんどの藩札が回収・焼却処分されたため、現存する藩札はわずかである[99]。
つづく永井家藩政はわずか5年程度であったが、藩札が発行された形跡がある[100]。元禄16年(1703年)に領内で発布されたお触れでは、銀札に関する言及があり、実際に藩札が流通していたことがうかがえる[100]。ただし、藩札の詳細は判明しておらず、現物は見つかっていない[101]。
森家時代には、入封と同時期に幕府から全国的な藩札禁止令が発布されたため、初期には藩札の発行を行っていない[102]。享保15年(1730年)、藩札禁止令が解かれると、同年のうちに藩札の発行を始めた[103]。
塩業
江戸時代、瀬戸内海の「十州」と呼ばれる地域[注釈 13]では塩の生産が盛んで、日本における製塩の大半を担っていた[105]。その一国、播磨国に属する赤穂市内では、弥生時代のものとみられる製塩土器が発見されており、当時から製塩が行われていたことがうかがえる[106]。寛永年間ころにおそらく播磨国で成立した入浜式塩田が、赤穂でも採用され効率化が図られた[107][108]。また、加古川の舟運が可能になったことや、赤穂の近隣に大阪という大市場があったことが、赤穂での製塩を促進するきっかけとなっている[109]。
慶長14年(1609年)の検地帳ではすでに、塩田の名前が見える[110]。正保2年(1645年)の浅野長直入封前後に、東浜塩田の開発が始まった[111]。この事業には、すでに入浜式塩田の技術を身に着けていた姫路藩の技術者が、赤穂に移住して取り組んでいた[112]。浅野家時代の総製塩量は米換算でおよそ3-4万石と推定される[113]。こうした塩の販売は、藩札の導入などによって、延宝時代までには藩が掌握した[114]。
千種川(熊見川)を挟んで東浜塩田の西側に位置する西浜塩田は、大部分が森家時代に開発されたものである[115]。しかし、瀬戸内海地域全体で塩の生産が過剰気味となってしまい、塩価の下落がちになる[116]。1750年ごろからはこれに対応すべく休浜同盟が提案されるも、赤穂藩の参加は1812年と遅めである[117]。
最盛期には約400ヘクタールもの大きさに及んだという[118]。
教育
藩校は1777年(安永6年)に設立された博文館(はくぶんかん)。藩儒の赤松滄洲・蘭室父子の建議により藩主・森忠興が開校し、「鶴の丸公園」(旧浅野家・伊藤宗寿屋敷付近)に立地していた[119]。練武場(武芸の稽古場)が設けられ、山下静斎の唯心流柔術や忠也派一刀流などの武芸修練が熱心に行なわれた[120]。